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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(80)

今の私に、〝キメつけは要らない〟

愛情研鑚会の中で、複数の女性をめぐって激しく山岸巳代蔵を追求する柔和子と、そのことの善し悪しでなく、一切のキメつけを外して研鑽できる真の夫婦としてのあり方を願う山岸巳代蔵との間で激しいやりとりが繰り返される。
そうした〝通じないもどかしさ〟を解消したいと山岸巳代蔵は、おたまじゃくしからカエルへの〝成長への脱皮〟の例えで語る次のような場面がある。
おたまじゃくしからカエル

山岸 おたまじゃくしなるがゆえに、陸上のことは分からなかった。だがそれなりに、おたまじゃくしとして、水があって水の中で生長しておったということは言えると思う。だから、おたまじゃくしの時出来なかったから今も出来ない、或いは出来るとか、やらねばならないとか、こういうキメつけは要らないと思う。ね、「私には出来ない」と、こういうキメつけは要らないと思う。そんなに一つの枠を設けて、ね、型を作って、それに当て嵌めようとする必要ないと思う。出来なくってもよし、出来たらなおよしの、あれでいいと思う。出来ること結構だ、なれば、わざわざ「出来ない」と自分をキメつける必要ないと思う。
柔和子 だからといって、今のままで、このような状態では生きていけないし、またそれを知ったからにはなおさらのこと。今までの、あなたの言葉自体、この……
山岸 「私は出来ない」という、こういうキメつけは要らないと思う。
柔和子 今の私には。そりゃ先ではそうなれるかも分からない。
山岸 いや、今の私がと、そこだと思う。今の私が、キメつけは要らないと。
柔和子 キメつけは要らない……
山岸 「なれない」というキメつけのない……”

ここでの〝出来る〟とか〝出来ない〟というのは、いわゆる「複数」とか「別れる」とか「結婚する」といった〝要らない言葉〟・観念に縛られない〝結婚形態〟を指してのことであろう。
もちろん今の私に、〝キメつけは要らない〟と。
あたかも拠り所のない月や星や地球が、間違いなしに律動しておる状態。人間同士の結婚に於いても、山岸巳代蔵にはそういうものがあるとの直覚があった。
そんな心から楽しめる、本当に嬉しい、そういう愛が欲しかったにも関わらず、現実は三人三つどもえの苦しみに悶絶しそうだった。

“柔和子に対して、俺はやっぱり好きで好きで堪らん、今でも好き。だが、窮屈な、窮屈な思いすることが、また堪らない。”
“ここに、せめて、自由にいつでも頼子を訪ねられるし、頼子が来られる、そういう世界が欲しいと思った。”
“柔和子の場合に、頼子がいる所へ自由に行けない不自由さ、これを感じてきた。四日市を通る時、特に恐れてきた。それは、どういうことか。頼子が、柔和子と僕と一緒に連れだっている姿を見た時に起す気持を感じる、その愛情から出た感じ方、それが耐えられないもの。”
“頼子は頼子で自分流な観方して、それを感じて、行動とらねばならない、その不自由さ”

こうした当事者ゆえの煉獄の試練は、すべて誤解から来るものであり、誤解というものは必ずいろいろの方法を以てすれば解けるはずだ。そうして本質だけ残ってくる。そうすれば、
「なんと素晴しい世の中だったんだ」
「こういう世界があったんだ」
「何であの時はあんなに苦しんでおったか、悲しんでおったか、目が見えなかった」
そんな日が必ずあるっていうことは、これはもう信じて疑わないと言っていい。それが本当だとする決意ともいえる確信があった。
山岸巳代蔵の目には、今日の形ではなく、カレンダーを数枚めくった日本晴れの明るい世界が展開していた。やがて必ず成ることを見極めての発言だった。
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