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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(83)

赤ん坊が乳首を求めるようなもの
赤ん坊と乳首

愛情研鑚会の中で複数形態での結婚に言及して混乱気味になり参加者の一人から〝根本問題から入っていかなかったら、この問題解決せんやろ。〟といった意見が出た時、すかさず山岸巳代蔵は次のように発言する。

“研鑽してから愛情が起こるもんと違うやろ”

たしかにここに恋愛・結婚そのものの持つ特異性というか何か理性の働きを超えたものの心当たりがあるらしいのだ。ひょっとしたらウソ偽りのない、本当の純の極致ともいえるような世界に通じる扉が……。
「その場に直面して起こる、予期しない、ね、起こるもの、計画を持たないもの。」
「そうしようと思わないのになってきたものの中にやね、ここまできたっていうことやね。」
自分自身の愛情・結婚についての道程を心の動きを克明に辿ることから、誰の心にも繫がる世界が立ち現れてくる確信があった。
たとえば第三九回特講(京都、三鈷寺)で出会った福里柔和子との始まりを次のように振り返っている。

“私はね、柔和子をね、好きになろうなんて少しも思わなかった。柔和子もそうだった。
初めの特講の会場でね、第一発ですわ。ねえ、「手に合わん女があるから、出てもらいたい」と、私、四日目ですが、四日目にはほとんど出ない、ね。ですが、山本さんなり他の人達が、「もう手に合わん女が、もうあれではもう進行が妨害されて、さっぱりその、進まん」と、「もうあの女で混乱、コウ乱されるでね、撹乱されるで、で、出てもらいたい」と言われて、私は、「ああ、そうかねえ」、ちょっと早いけど、出ないでおこうなと思っていたんですけどね、まあ進行係に出てくれと言われて、まあ出たんですわね。そしたら、ここにいた柔和子、いや、あんまり意識しませんわ。まあ、「あの女や」ということは言われたようにも思うが、うすうすそんなに意識に残るほどハッキリ意識してなかったんですわね。
(略)
どうせ、もう鼻の高い、まあ、いわゆるああいう、その、代議士なんかに出るような議員型の、っていうかね、もう中性化したような、そういう未亡人ぐらいに思ってましたわね。そらあ、そんなの、なんの興味もなかったですわ、私。
その当時、要らないと思うだけでなしに、異性に対する興味、なんにもなかったですけどね。そしたらね、しばらくしたら、向こうの方から声が出た、ずっとたくさんの人の奥から。あの時は会場人が多かったからね。それで、声がして、
「そこにいる大村とかいう名前の人は、なんとか言うたなあ、真実の社会、世界になったら、みんなそんなになりますんか」って、そこで、あの、そんな、あの、髭ぼうぼうと生やした痩せこけた、まあ色男でもないっていうか、醜男と言うたかね。「そんな社会になるのやったら私は嫌いです、人生カサカサですなあ」ってやられる。
「私はねえ、私は惚れてもらいたくないのや」、本当の本心言うたんですわ。今までたくさんの女性がね、パアーと来る、会場、あれ進行なんかやら、他の時でも下がる時、廊下へザアーと来るんですわ、男も女も来るんですけどね、そこからねえ、非常に心に焼き付くもの持った人もあるんですわ、たくさんあるんですわ。そういう人作りたくなかったからね。
(略)
ところがねえ、それからねえ、おかしいんですわ。それからねえ、私はねえ、無意識ですわ、無意識にねえ、柔和子はもう外に、その次休憩があって、それから外へ出て、私も出てましたなあ。もう進行、次の昼からやったか、なんやったか知らんけどね。そしたら、そこに、あのだんだん、こう自分がいってるうちに、発言がほとんどなかったですけどねえ、そしたら発言、柔和子が発言したんでねえ、てなもんですわ。それで接近して、もう肩に四尺くらいのとこまで接近してたんですよ。
そこでねえ、ハッと気が付いて、それからまた、ちょっとやっぱり照れくさいものありましたなあ。照れくさい感じしました。それから離れて、また、それからまた偶然っていうか、必然っていうか分からんですけどねえ、あっそうそう、それからお昼やったな、お昼ご飯食べてねえ――夕飯ではなかったやろ、夕ご飯やったか、どっちか忘れたですけども――あの三鈷寺の台所で私達食べてました、席がないもんですから。
そしたら、この、女の席がそこにあったんかどうか分からんですけどねえ、ねえ、意識しないのにそこに柔和子がいましてねえ、ご飯食べてたのか、どうやったか分からんですけど……”

ここから誰もが経験する〝自分で自分をどうすることも出来ない〟男女の惹かれ合う〝恋愛〟の世界へと一気に突入していく。
こうした最も相合う人を意識して、或いは無意識の中に、求め求めての恋愛巡礼、結婚巡礼の中に、恋愛や結婚について研究するための実験やモデルづくりとして進行したものはただの一回もなかったし、わざわざ実例を作ろうと思って作れるものではなかった。
ただただすべてに本当を求めていると自ずと心底から湧いてくるものがあったのだ。
その辺りを次のようにも記している。

“「休む時も、遊ぶ時も、何かを探求し、仕事をする時にも、食べる時にも、心に女性を感じ、ほのぼのとした気持であることによって、満たされた思いで生気が吹きこぼれているように思う。講演会に出ても、戯曲を見る場合も、一点の女性がないということは、冷たく潤いのない無味さを感じる。おばあちゃんか子供でも、異性が入れば生花を感じ、心はにこやかになる。なごやかになる。生き生きと仕事が出来る。これは僕一人でないと思う。また、男の場合に限らないと思う。(略)
それは無意識であっても、探し求めているのは人間の本性であり、両性に別れてある生物の希求してやまぬところであろう。赤ん坊が乳首を求めるようなものではないだろうか」”(『恋愛と結婚』の前書き)

異性(他性)なしでは生きられそうもないのが人間の本性であるというのだ。本当に人間は一人になり切れるものでなく、他との繋がりから自ずと湧いて来るものがあるというのだ。
何だか当たり前すぎることを言われていて、小馬鹿にされているのかと思うぐらい日々の実感からは遠く感じられるかもしれない。
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