自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(85)

〝インドの少年の話〟

というのも、『自我の起源』の中の30ページ余りの「補論2 性現象と宗教現象」に収められた〝インドの少年の話〟を素材にもう十年以上自分らの研鑚会でテーマとしてくり返し研鑽してきた経緯があるからだ。
今回先の森崎さんのブログを通して、〝インドの少年の話〟がヴェトナムからの難民船の話や宮沢賢治の性的な禁欲と宗教に託する願いの文脈の中で取り上げられていたことをはじめて知らされた思いがした。自分の中で〝インドの少年の話〟があまりに強烈に焼き付けられていたためか、その前後をうかつにも失念してしまっていたのである。
こんな話である。
インド・ストリートチルドレン

真木悠介さんが南インドを鉄道で旅していた時、ある小さな駅に着くと乗客が窓から投げ捨てるバナナの皮に飢えた少年や少女が群がって奪い合う光景が見られた。
そこで乗客の一人が中身の詰まったバナナを差し出すと素早く奪い取った少年がいた。するとその少年はそのバナナを多分まだ歯のそろっていない妹に中身の部分を食べさせている。その間、少年はうっとりとした表情で女の子を見続けている。
そしておしまいの根元の部分を女の子の口に押し込むと、少年は皮だけを食べて、またあの争奪戦の中へと戻っていった。

列車の中からその一部始終を見ていた真木さんは、少年のうっとりとした表情に
“わたしはこんなに幸福な人間の顔を、これまでに何回かしか見たことがない”
と感銘を受け、そこから
“「文明的」な世界では幾重ものシステムと観念装置に覆われている関係の真理のようなものが、仮借ない直接性の陽射しにさらされて裸出している”
と比較社会学的に分析しつつ、
“餓鬼は餓鬼として即菩薩であり菩薩は菩薩として即餓鬼である”
世界を垣間見るのだった。

自分らのテーマは一貫して「少年の目に映ったもの」だ。こんな問いかけを、もう十年以上くり返しくり返し自らに問うている。
ねらいは、自らが自らの観念を、足元を、立場を、立脚するものを、開いてたえず検べようとすることで、つまり〝透明に〟追い求め〝それ自体として〟取りだすことで自ずと立ち現れるものに出会うことにある。それはまた先の“産卵死する鮭”の「目に映ったもの」といったテーマにも通底しているにちがいない。
いや、なによりも先のヴェトナムからの難民船の小さい子供をもつ「若い母親たちの目に映ったもの」が問われてくるのだ。
何だか禅問答めいた問いかけがこの間二週間も続く。

「この自分の寄って立つ観念に執着するがゆえに、基の心にある束縛に気付かない観念我」(わが一体の家族考79)をこじ開けるのだ。
〝そこから脱却することを拒む頑固我〟〝きめつけ我〟〝思いごと、願いごとを持ち続けねばならんとする固持我〟〝頑として放そうとしない我〟〝かたくなな我〟等々。
するとそこに思いを集中することで、一切の諸々の知識経験を介さず、心の琴線に触れて開かれる瞬間がある。そこから何かほのぼのとした温かいものが湧き上がってくるようなのだ! 
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