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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(86)

『蜜柑』の小娘

先の『自我の起源』にあった〝インドの少年〟や〝産卵死する鮭〟の話と共にもう一つ芥川龍之介の短編『蜜柑』も研鑽テーマの素材に選んでいる。
ちょうど真木悠介(見田宗介)さんが列車の中から少年の振舞いを書きとめた如く、芥川龍之介も列車の中から小娘の思いもしない振舞いに深い感動を受けた話である。

ある曇った冬の日暮れ、疲労と倦怠を抱えた私は、汽車の発車まぎわに乗り込んできた13~4歳のいかにも田舎娘らしい、風呂敷包みを持った小娘を不快に思う。
しかも数分後、小娘がなぜか勝手に窓を開けようとしはじめ、開いた時には汽車がトンネルに入ったので私は煤煙を浴びて咳き込む。
だがやがてトンネルを抜けると、踏切りの柵の向こうに3人の男の子が並んで手を振って声を上げている。
その瞬間思わず、窓から半身を乗り出していた小娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢いよく左右に振ったと思うと、たちまち心を躍らすばかり暖かな日の色に染まっている蜜柑が、およそ五つ六つ弟たちの上へばらばらと空から降ってきたのだ!
芥川龍之介・蜜柑

私は思わず息をのみ、そして刹那に一切を了解する。恐らくこれから奉公先へ赴く小娘が弟たちに投げ与えた蜜柑なのだ!
が私の心には、切ない程はっきりと、この光景が焼きつけられた。そしてそこからある得体の知れない朗らかな心持ちが湧き上がり、この時始めて云いようのない疲労と倦怠とを、また不可解な、下等な、退屈な人生をもわずかに忘れられた。

もちろんここでのテーマも、「小娘の目に映ったもの」になる。
研鑽のポイントは、先の真木さんが分析する「文明的」な世界での〝幾重ものシステムと観念装置に覆われて〟眠っている、閉ざされている〝真実〟を開眼・解放するためにどこまでも〝透明に〟〝それ自体として〟求め取りだすことができるかに焦点が絞られていく。
が、このことがいちばん難しい。なにせ基の心に鎮座する束縛(我執)という諸々のキメつけ囚われ我から脱け出す実動行為を伴うのだから……。
急所は頭で理解するのではなく、そこから湧き上がるものに浸りきることにあるのだが……。

かくして例えば
「少年の目に映ったもの」
“産卵死する鮭”の「目に映ったもの」
「若い母親たちの目に映ったもの」
「小娘の目に映ったもの」
といったことなどを皆で研鑽していくと、誰の心にも響き合い流れる一つの情感のようなものに抱擁(つつ)まるるのだった。

自分も同じような心持ちが湧いてくるなあ、と。自分が〈自分〉に出会うって、こんな感じなのかなあ。くり返しそんな自分の実感に想いをめぐらしていると、あの喜怒哀楽の感情とは異なる質の〈自分〉がその都度立ち現れてくるような気がしてくるのだった。
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