自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(87)

〈性〉の琴線に触れる

こうした一連の〝私が私に出会う〟研鑽過程は少なからぬ発見の驚きを自分ら一人ひとりにもたらす。自分が〈自分〉に出会うって、こんな感じなのかなあと、〝何かほのぼのとした温かいものに包まれている心持ち〟に充たされるのだ。 
しかもそうした〈自分〉を、先の真木悠介さん(わが一体の家族考84)は、

“わたしたちの欲望の中心に性の欲望があるということは、個としてのわたしたちの欲望の中心部分が、あらかじめ個をこえたものの力によって先取りされてしまっているということだ。性とは、個という存在の核の部分にはじめから仕掛けられている自己解体の爆薬である。”

という。そして、

“個体は不可解な力に動かされるように性を求める”

として、自我を超越するエクスタシー(恍惚、忘我、脱魂、魂消)の表象を〝聖テレジアの恍惚〟にみてとる。
聖テレジアの恍惚

そんな自我を裂開する力を内包している〝〈性〉の自分〟に重ねてみたくなる。心の琴線に触れるとは、ひょっとしたら〈性〉の琴線に触れるということだろうかと。

そういえば琴線に触れて〝何かほのぼのとした温かいものに包まれている心持ち〟に充たされる〈自分〉は、きまって自分以外の他の人との関わり、繋がりから自ずと湧いてくるものに気づかされる。
そんな親愛感に満ちた世界で、それまでの自己という自我は溶かされてしまい、新しく味付けされた他の人との関わり、繋がりの中の〈自分〉を見出すのだ。
そんな自我を裂開する不可解な力が個体に秘められている。そんな実態を指して〈性〉というのだろうか?
出発点になるのは次の一節からである。

“人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能で、その関連を知るなれば、自己一人限りとの考えは間違いなる事が解り、お互いの間に愛情の含まれるこそ、真理に相違なく”(『ヤマギシズム社会の実態』)

人は、人と人の互いに切り離すことのできない〈性〉を介する繋がりによって生まれ、そこからもたらされる親から子へと、一方的に与えて喜び、受けて喜ぶものが核となって育ち、今度は人と人との繋がりの中で最も相合うものを求めて溶け合った夫婦の繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、自己の延長である愛児に楽園を贈ることにはならないからである。
この拍子抜けするくらい当たり前の繋がりの事実から、自己を生み、育み、注ぎ込まれたものの源泉に触れようというのだ。

いやその前に、一つ気になる個所がある。
〝繋がりによらねば、……永遠に生きることは絶対に不可能〟ってどんな意味?
そうなのだ。筆者は〝人と人との繋がり〟が未だ知られていなく、そのため〝永遠に生き〟たいとする万人の切なる願いも実現されていないというのだ。

自分の日々の喜びが子孫の日々の喜びに共通する永遠に続く〝その関連(繋がり)を知るなれば、自己一人限りとの考えは間違いなる事が解〟るというのだ!
ただ漫然と生まれ、寝食所業に明け暮れて、子孫万代その繰り返しに終始するのみのものでないというのだ!
食べて子を次代に引き継ぐのみなれば、他の虫魚禽獣に恥じるものがないだろうかと。
子は鎹(かすがい)といって、子供が出来ると不仲の夫婦間でも子供の可愛さに曳かされてつなぎが固くなり、多少の辛さも辛抱して泣き寝入りで治まると、子供という紐帯によって繋がれて男女が同居していることを、睦まじい夫婦と見損なっているともいう。

それでは〈性〉の繋がりを知るとか、〝永遠〟に生きるとはどんなことなんだろう。
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