自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(88)

集団性の成り立つ根拠をどこに?

ここでいう〈性〉とは、恋愛・結婚を意味する夫婦の性(繋がり)や肉体的な〈性〉行為の世界に留まらず、広義にいった場合〝自己一人限り〟とか〝一人ででも立ち行けるものだ〟と他との関連を断ち切る考え方でなしにお互いを生かし合う繋がりの総体を意味する〝一体〟の世界にまで通底するはずのものだ。
たしか本稿「わが一体の家族考」を始めるキッカケになったのは、吉本隆明さんの次のような指摘からであった。
吉本隆明

“その「一体」というところでかんがえていちばん問題なのは、男女の結びつきの次元というのが共同体の次元と同一化してしまうことです。そこがものすごくきついんじゃないでしょうか。かりにそういう男女がいるとすると、かれらは絶えず共同体の水準におかれようとする力を「一体」という観念から受けているから、男女のあいだに、ささやきとか、声にしなくてもわかるとか、そういう意味の微妙さがなくなっちゃうんじゃないでしょうか。ふたりでいるんだけれども、絶えず脅かされているといいますか、全部公開されているみたいな、そういう心理状態に絶えずさらされていることになる。
もし人間の性愛のなかに、色とか、味とか、匂いとかの比喩でいうべき問題があるとすれば、それが全部、無味・無臭・無色というふうになってしまうような気がするんです。ほんとにそうなることはたぶんありえないから、絶えず解体にさらされるか、または、もし男女の結びつきがひじょうに親密になってくれば、共同体から出ちゃうという衝動をいつでも感じざるをえないみたいな、なにかそういうところでいちばん矛盾にさらされるような気がするんです。(吉本隆明『対幻想 n個の性をめぐって』1985.1春秋社)”

実際に自分らはある時期、〝家族をやりたい〟と“共同体から出ちゃうという衝動”にかられる場面に遭遇したことがある。
しかしそれは果たして吉本さんが一貫して主張されてきた、「一体」理念で“男女の結びつきの次元というのが共同体の次元と同一化してしまう”矛盾から来るものだろうか? 

果たしてそうだろうか? ホントにそうだろうか。キッカケは皮肉にもあの〝家族をやりたい〟と“共同体から出ちゃうという衝動”にかられる場面に遭遇したことにあった!? 絶望のドン底から途が開け始めたのだ!
むしろこの生身の〝人間性〟から発して、主体とした、基調の上に〝一体の家族〟像なるものは描けないものだろうか、と。
こうしたモチーフが本稿を書き継ぐ動機ともなっている。

一般的にも個と集団とは次元の違った別々の世界をつくる。集団としての組織化が進むと、運営する者とされる者との間には、どうしても埋めることの出来ない溝が必然生まれる。
だとしたら個と集団の矛盾や対立を解く糸口はどこにあるのだろうか? 集団性の成り立つ根拠をどこに見出すのか?
この問いは、自分にとっても一貫して変わらない自身に対する問いかけにもなっている。ある意味この場で生きる自分の存在理由とも繫がっている。

たしか吉本さんは、例えば「一体」とか「全人真の幸福」といった誰もがそうだと認める理念を前にして〝息苦しさ〟のようなものが伴ってくるとしたら、次元の違うものとしてある集団と個の観念世界をごちゃまぜにして個の〈倫理〉として受け取ってしまうからだと考察された。
そしてそこから「個人としての個人」「家族の一員としての個人」「社会的な個人」と分けて考えることで、自己欺瞞に陥りがちな三つが混同される観念の矛盾から解放されるはずだという独自の見解を自分らに托された。
こうした吉本さんからの贈り物にこの間ずいぶん救われ励まされてもきた。

しかしここで吉本さんは、〈性〉に関わる家族の次元の領域を人間の観念世界が生み出す三つの次元の一つと見なされている。
ところが実際そう見なすだけでは、集団と個の問題が心底解消されたという実感が湧いてこないのだ。
ある意味人間の〈性〉の世界を社会の共同性への媒介と見なすだけでは、
“無味乾燥・器物の世界に等しく、潤いのない造花の社会”(『ヤマギシズム社会の実態』)
が現れてくるだけだ。一般社会の共同性の中へ〈性〉の世界が取り込まれて位置づけられてしまうだけのことへの危惧というか異和だ。

〈性〉の世界という一番肝心な部分が、未解決で残されている。そんな未知で未経験な事柄にいどみ、そこに何か新しいものを刻んだという事実を発見しかつ味わいたいのだ。
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