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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

「と」に立つ実践哲叢(29)

 〝共に〟を地で行く

先回「では〝虚構〟に代わる〝信じない〟でやる生き方は可能だろうか? 時の最先端〝金の要らない仲良い楽しい〟の真価が問われる」と記した。
でもいったい〝信じない〟でやる生き方ってどんなこと何だろう? ただ口先だけの言葉ではなかろうかとだんだん心許なく感じてくる。きっとその先の描きが足りないからだ。
かつてない現実を創るビジョンが切に求められている。それには〝信じない〟でやる我執のない自分を発見して、〝金の要らない仲良い楽しい〟をそのまま現していくことだ。そんな内実が問われているのだと。 

確か1970年代の始め頃、本紙『けんさん』の発行費用の一部は、種鶏場で生産された種卵をヒヨコに孵化する各地の会員でもある孵卵場からの広告収入に負っていた。
その中の「トモニヒヨコ」という種鶏場さんの名前が今も強く印象に残っている。というのもずっと後で、あっ、トモニって山岸会の会旨「われ、ひとと共に繁栄せん」の〝共に〟のことだったんだ!と今頃気づくうかつな自分にあきれ果てたことがあるからだ。
と同時に、自分の中に〝共に〟がストンと肚に落ちたような爽快感もあった。なぜか嬉しくて嬉しくて仕方なかった。

日頃大勢で暮らす暮らしの中で、つい気の合う人、苦手な人といった人間関係面で気持が揺らぎがちだ。でも今日までやれてきた秘訣は何だろうかと想いを馳せると、個々人の取り組みもさることながら、「それは共にやってきたから」としか応えようがない感慨に打たれずにはいられない。
そうなのだ。山岸会の会旨「われ、ひとと共に繁栄せん」の主体は、われにも、ひとにもなく、〝共に〟にあるのだ!? 

オーケストラの例えが分かりやすい。
オーケストラ

下手な指揮棒にも合わし、合奏しながら、全体を向上させていく上手な楽士が本当の楽士だ。めいめい思い思いだったら、その楽団はどうだろう? また一人の異端者が、ブカブカドンドンやってもどうだろう? またその曲調に最も堪能な人であっても、他の未熟な連中には付いていけないと独奏・独走したなればどうなるだろうか? 

主体は〝共に〟にある。〝共に〟の心にある! 一人ひとりの〝共に〟の自己が合わされてこの上ない感動を生み出すオーケストラの合奏が実現する。
この〝合わす〟という能動的な自己って、ひょっとしたら先の「〝信じない〟でやる我執のない自分」のことではないだろうか。
大発見だった。我執まみれの自分が、〝我執のない自分〟に出会えるなんてもうビックリ。それまでのばらばらに抽象的に散らかっていた言葉の概念が一つに繋がって生き生きとイメージされてくるのだった。

最近とみに盛んな実顕地間交流も、農繁期の労務調正を兼ねつつ〝至る処家在り、食有り、友、吾が子あり〟の世界を実現している。〝共に〟を地で行く楽しさを味わいつつ。
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