自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(92)

コペルニクス的転回を実現

それにしても例えば先の、

“先ず自分を、先ず自国をかためてからの出発でなくて、先ず全世界人類全体のための立場から見ての、今日、唯今の行いにならねば、全部狂った結果になります。”

という文言など、すでに往昔から言い古された陳腐な言葉でもあり、とりたてて問題にするほどの事ではないようにも感じる。
ところがその昔ある研鑚会で、次のような一節を研鑽していた時だった。

“かように優れた雛が生産されるのも、原種改良と、種卵養鶏会員・孵化会員及び多数実用養鶏会員間の緊密な連繋によったもので、相手方を栄えさして全体が栄え、自分も栄える一体機構が養鶏面にも具現され、親愛協力社会のモデルケースと云えましょう。”

誰かが、思わず
「何だ!? 自分が栄えるのは一番最後になっている!」
と発言して皆で大笑いしたことが蘇る。
と同時に何か新しい世界を垣間見た発見の歓びのような気持の高ぶりが押さえられなかった。
そうなのだ。〝先ず自分を、先ず自国をかためてからの出発〟と〝先ず全世界人類全体のための立場〟との異いは、人間の倫理・道徳価値観の異いからではないのだ!

バタイユは〝宇宙エネルギーの流通の表れ〟の観点から人間社会のあるべき姿を描こうとしているのだ。
宇宙エネルギー

つまり生命=生きる力のもとは太陽エネルギーにあり、即ち人間の富の源泉と本質は日光のなかで与えられてあるものだという。しかもその生命の維持に要する以上のエネルギーを受け取る。
それゆえ問われるのは絶えず
“存続するエネルギーの沸騰をどう始末すればよいのか?”
という〝普遍的観点〟からのテーマのみである。

ではなぜ人は、欠乏感や不安から他の人と資源の奪い合いに終始するのだろうか。多くあるが故に守らんと戦争に駆り立てられるのだろうか。それは〝個人的、個的観点〟から出発しているからだという。孤立的存在に閉じこもっているからだ。
そんな〝個人的、個的観点〟から〝普遍的観点〟のそれへ移行することは、まさしくコペルニクス的転回を実現するに等しい。すなわち思考の―そして倫理の裏返しを実現することだとバタイユはいう。それは人間の生そのものと宇宙の存在が結びつかなければ実現されない! 
確かにこの真理は、あまりにも逆説的であり、突拍子もない事実を人間のあり方に突きつけているかのようだ。

こういうことだ。
人はみなそれぞれ個性なり、我なりがあるのが当然で、これを個人とか、自己・我・私などと呼んでいる。その個人個人が自分を護って最も上手に生きようとして、自我を立て、護ることは理の当然だ。
人はみな自分が都合よく生きられるようにと考えて実行することが肝腎だ。
ところが、あまりにも自分を護りすぎて、他との連携の大切さを忘れがちになる。
自分だけでは都合よく生きられない事実!
異性なしでは都合よく生きられそうもない事実!
この辺が逆の考え方で……。
その辺りをバタイユは、〝思考の―そして倫理の裏返しを実現するコペルニクス的転回〟といい、自分らの〝世はまさに逆手なり〟と自分の考え方で自分を束縛している自分の頑固に気付いて、「先ず実行」とそうした観念から脱け出す〝出発点〟に立つことを必要とする所以のところであろうか。
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