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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(93)

エロティシズムの魅惑力

テーマは、〝放してこそ豊か〟と〝エロティシズム〟との結びつきであった。
バタイユは考察する。エロティシズムもまた比類のない豊かさをもつ諸反応の総体であると。なぜなら、動物たちの性的な戯れに類似したような性活動の中にはなんらエロティックな要素はない。あのエロティシズムの激しい感情・観念は存在しない。
というのもエロティシズムは、「動物から人間への移りゆき」の〝運動〟それ自体の中から湧いてくるものだからだ。

人間とは、自然を否定する動物である。身近な女を断念するという〝近親婚の禁止〟もそれである。性と排泄物への嫌悪もそうだ。消しがたい恥の感情……。
動物性を離脱しつつある人間は、動物的・本能的な生殖活動に象徴される性的事象全体に怖れや嫌悪を抱き、しかも怖れや嫌悪を抱きながらも、結局は動物性を離脱できないという事実に直面してしまうところに激烈な矛盾と対立に充ちた人間性を見てしまうのだ。
自然を否定し自然から離れようとしても結局は自然の一部であるという事実に回帰せざるを得ない人間性。
だとしたら、エロティシズムが与える、あの〝喜びに満ちた忘我の境地〟は、動物本能的な性の欲望から、人間性の深奥に向かってどこまで離れることができているのだろうか? これが生涯を賭けたバタイユのモチーフだ。

そうしたエロティシズムがもたらす〈私〉と〈あなた〉は、何れが主体でもなく、対象でもなくなる次元においてのみ出会い、溶け合い、関係する。それは人間の生そのものと宇宙の存在が結びつく瞬間である。なぜなら欲望の対象は宇宙であるからだ。
エロティシズムの恍惚は、〈私〉と〈あなた〉との関係は、宇宙の存在に結びつく瞬間にある!? そんな大げさな!

以前所用で神戸に出かけた折、その頃開館したばかりの小磯記念美術館に立ち寄ったことがある。
そこで画家・小磯良平の描く〝二人裸婦〟等に見られる丸味やボリューム感あふれる裸婦像に、ふくよかな母のイメージへの憧れのような思いが呼び起こされた記憶がある。
その後「イエスの方舟」の千石剛賢さんが著書『隠されていた聖書』の中で同じ小磯良平の〝横向裸婦〟に、
横向裸婦・小磯良平

美の極致としての女性の本質というか造形美を見たという。それも裸婦のかがみこんだ下腹に、嫌悪すべき排泄物と同居していのちが受胎する〈性〉が位置づけられている、まさにその醜と美の絶妙な位置づけに神のはかり知れない叡智を見る思いがするといわれていた。
なるほどなぁと感心した覚えがある。

しかしここでのバタイユはそんな〝ふくよかな母のイメージ〟とか〝神のはかり知れない叡智〟といった静止的な理解では、動いている事実の内包する溢れる豊かさの中に入っていけない甘ちょろい観方にすぎないと言いたげである。そこが全ての間違いの元凶なんだと断じてやまないふうなのだ。

バタイユは、エロティシズムの魅惑力は人間の性における動物性に抱く一貫した嫌悪(怖れ)が逆説的に〝禁止の侵犯〟として働くところから発しているのだと言いたいのだ。
そこから愛人たちの性的な熱狂の瞬間には、著しい量の生命エネルギーを無際限に、なんらの利益なしに消失する。その最も強烈な昂まりの瞬間は「小さな死」と呼ばれるほどである。〈私〉と〈あなた〉の愛の世界は、〝欲望の対象は宇宙である〟と断言したいほど宇宙の広大無辺さを前にして、切り離された脆い個人を超えて肯定し繋がり包み込んでくれる唯一頼れる真理顕現の場なのだ、と。

“美しい女の裸体が垣間見させる猥褻は欲望をそそる。それは(……)彼女の動物性の与える不快感が、美によって許容可能で魅惑的なものにされる嫌悪の限界を超えないかぎりにおいてである。(『エロティシズムの歴史』)”

あの西欧特有の禁欲的なキリスト教道徳や私的な母と子の関係の呪縛から逃れたいこだわりの難解さを脇に置けば、何となく〝放してこそ豊か〟とか〝エロティシズム〟とかが体験的・実感的に自分らにも重なってくるところがじつに興味深いところだ。
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