自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(94)

〝動物から人間への移りゆき〟

バタイユの思想の真骨頂は〝動物から人間への移りゆき〟それ自体を弁証法的に捉えたところにある。どういうこと?
ジョルジュ・バタイユ

例えば動物には、空腹であることと餌の探求とのあいだに差がない。ところが人間には例えば〝武士は食わねど高楊枝〟といったやせ我慢?や武士たるものは貧しくても気位は高くしているといった〝武士道〟が生まれる隙間がある。
〝腹が減った〟と〝食べたい〟とする欲望が直接結びつかない間隙の〝部分〟が人間にはあるのだ!
これ(〝部分〟)って何だろうと生涯をそれの探求に費やしたのがバタイユの思想だ。

自然の子である人間は、自然を離れて生きることはできず、自然に背いて栄えることもできない。その通り!
それにもかかわらず〝動物から人間への移りゆき〟の過程で発生する人間と動物を区別するこの狂おしく激しく密かに引きよせる力、誘惑する〝部分〟はいったい何なんだ?
なかでも動物の本能的な性活動からエロティシズムへの移行へとエロティックな欲望を伴う質変化の正体は……。
そうした人間の本質的な矛盾が現れる謎のいわば〝呪われた部分〟の深みへと下りていくと、そこには美と醜、神聖な恍惚と極度の恐怖、死とエロティシズムとの結びつき等などあらゆる対立する要素がまばゆいばかりに露わにされてきて、しかもそうした矛盾する二つの動きが一つのものとして立ち現れてくるのだ。
そのことはまたエロティシズムの解明にとどまらない。
一方的に太陽からのエネルギーを受けるばかりの人間社会は、どうしてもエネルギーの余剰を過剰生産や戦争によってしか始末できないでいる。それは人間社会にとっては、〝呪われた部分〟として今もあり続ける。
だとしたら過剰なものをどうしたら平和的に無くすことができるだろうか? しかしまだ

“わたしたちは、太陽がエネルギーを獲得することなく、エネルギーを放出し続ける条件を理解していない。”

そうなのだ! こうした人間自身が解くべき謎のような問いかけを前に、バタイユにおとらず自分らも心を掴まれ、心高まる個所だ。
また断章『呪われた部分あるいは有用性の限界』の中で次のように書きとめる。

“いまやわたしたちは孤立した存在の群れであり、乾ききった埃である。人間を動かしている生の深さを知らず、みずからを知らず、宇宙にあるすべてのものが、すばらしい壮麗さをそなえていることを知らない。(略)
わたしたちは壊れた世界を結び直したいと思うが、そのための紐がない。”

そんな紐に象徴されるようなものが〝放してこそ豊か〟や〝エロティシズム〟の本質を通して、〝自己裂開的〟に自分らの心をうっとりと〝喜びに満ちた忘我の境地〟として立ち現れるのではなかろうか!
所有とか囲うとか獲得するというよりも、放すとか無益な消尽とか無償(タダ)の実動行為によって立ち現れるものがあるというのだ。
きっとバタイユはそこに合目的な真面目な労働とは対照的な〝遊び〟の世界を見ているのだ。 

“「ひとりの人間の、他のひとりの人間への愛」が、無限に終わることなく関係する欲望として反復される”
そんな
“快楽から快楽へと、歓喜から歓喜へと進んでいくためだけなのである。彼らの共同体は消尽の共同体なのであって、獲得の共同体である国家とは正反対なのである。”

という〝愛人たちの消尽の共同体〟を見ているのだ。
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