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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(95)

〝獣性より真の人間性へ〟

かつて山岸巳代蔵は宇宙天体の地球も太陽もどの星も、空間に点在するのみで、安置の場所もなく、固定した軌条もないのに、時間・距離をほとんど正しく自転・公転等を正しく律動している現象を見て、その不安定状態、少しも止まらない状態、それがそのまま〝安定〟やと〝不安定の安定〟やと実感として捉えた。
例えていえば普段の〝汽車に乗る時〟のようなものだともいう?
ある時たまたま風呂場で山岸巳代蔵と一緒になり、二人で湯船に浸かりながらの問答を藤川勘多さんが機関紙『ヤマギシズム』(1961.6.15発行)に書き記している。

藤川 先生この頃命がけという言葉が言われていますけど、命がけいうたらどんなことですやろ。
山岸 そうですね。そんなにハッキリ命がけというようなことは言えんけど、まあ汽車に乗るようなものでしょうね。
命を賭けたつもりでいるのに、案外賭けていない場合が多いね。命を賭けたと思わんでも命のかかっている時が多いね。”

たかが汽車に乗るぐらいで、そんな悲壮な思いして乗るのかと誤解されがちだが、そうではなくそれで一つの安定感に立って乗っている、危ないかもわからんと、そういう線でもう安定している事実をいっているのだろう。

そういえば山岸会の運動が発足していっとう始めに山岸巳代蔵が起草した一文の題名が「獣性より真の人間性へ」だった。
そこで〝物の必要限界〟について触れ、身体よりの物欲には限界があり、同じ物が必要以上にあり、自由に得られるなれば、空気や水に対する感じと変わらなくなるはずだと述べる。
ところが心よりの欲求による物量には、際限無きものがあり、征服欲・支配欲・優越感情・所有欲等に至っては、心の転換を見るまでは停止するものでなく、その多くは他を苦しめ自らを誤ることがあると断じている。
そして、誰でも何時でも必要なだけ、何程ほどでも常住不断に得られる物の偏在機構を正す仕組みの確立と共に、無智・無能・狭量・偏見・自己を知らない人間の馬鹿さ・蛮行を知って智恵ある人間の賢さに賭けようと力強く提案・主張している。

ここで奇しくもバタイユの取り組んだテーマ〝動物から人間への移りゆき〟と山岸巳代蔵が事の始めに掲げたテーマ〝獣性より真の人間性へ〟の重なりに驚かされる。
ただバタイユのいう〝動物〟とは本能に縛られる人間を意味するものだが、山岸巳代蔵のいう〝獣性〟とは動物の特性を指すのではなく、蛮行・愚行に通じる品を欠いた人間の一面をいうものだろう。そこからの旧い観念の殻を脱皮し、〝心の転換〟を蝉の脱皮の姿に托した。心の人間復帰を目指した。
セミの脱皮

“世界中みんな抜けたらよいのだ。蝉のように固い固い醜い殻を破って、みずみずしい羽根は生の喜びに輝くであろう。”(せみ丸1959.10.3)

先にバタイユの思想の真骨頂は〝動物から人間への移りゆき〟それ自体を弁証法的に捉えたところにあるとした。そして例えとして、動物は空腹であることと餌の探求は直に結びついているが、人間はそんな動物的な部分を嫌悪し否定しながらも一面絶えず引き寄せられる矛盾と対立に満ちた不安定状態に呪われている謂わば〝戦争なんかしたくないのに戦争へ突入していく〟存在として捉えた。
その辺り自分らは今一歩弁証法的に、〝無智・無能・狭量・偏見・自己を知らない人間の馬鹿さ・蛮行を知って智恵ある人間の賢さに賭けようと〟例えば
“食べたいから食べるのと、食べなくともよいが食べるのと、何でも二つある。”
といった研鑽テーマを掲げては、
〝食べなくともよいが食べる〟といった人間ならではの間隙の〝部分〟にもっと着目して、いってみれば〝不安定状態〟を活かすというか、調和をはかるという知的な「研鑽」を如何にしてそこから産み出せるのだろうかと日々取り組み中のところだ。
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