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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

「と」に立つ実践哲叢(31)

 〝結びつける力〟の涵養

そもそもこの連載コラムの始まりは、ヤマギシ会が発足した翌1954年に山岸巳代蔵が某誌に寄稿した文章のタイトル「稲と鶏」の「と」の意味するものを探るところにあった。
そこには稲作は稲作として養鶏は養鶏として従来個々別々にあったのを、稲作があって養鶏が成り立ち養鶏があって稲作農業が成り立つよう〝一つ〟に結びつけた画期的な農業養鶏の誕生が記されてある。

それまで繋がりのなかったものを結びつけることによって打開されていく実践だった。それは「稲と鶏」の、稲の立場や鶏の立場を通さずに、両方の立場を離れた、いわば「と」からの観方であるとも言える。
そんな見晴るかす場所に立つことで見出される双方が溶け合う〝結びつける力〟を、もっと自分らの暮らしの中で涵養(かんよう)していきたい念いから出発したのだった。

例えばこの間マスコミが連日報じる角界を揺るがす横綱日馬富士の暴行問題も、当事者が一堂に会しての〝研鑽があったら〟とっくに解決済みの一件にすぎないのでは?
貴乃花VS白鳳

加害者と被害者の相矛盾、貴乃花と白鵬の確執、モンゴル横綱と相撲道のねじれ等などに加えて、協会関係者からの横槍から警察当局へと問題はますます複雑化されていく。
暴行問題一つとっても、なぜもっと楽な方法で仲良く溶け合っていけなかったものか。
今の社会の法律ではどうしても物理的暴力だけがクローズアップされて、なぜそこまでの行為に至ってしまうかの真意・遠因等が消されてしまいがちだ。その原因を取り除いたらよいだけのことなのに……。

よく「千貫匁(3750㎏)の石を動かせ」と言われた時に、僕はいったいどうしたらいいんだろうかという例題が思い浮かぶ。
普通は「そんなもの動かせるかい」と言って拒むか、動かす気になってすぐ石に飛びついてしまいやすい。
幸い自分らは、ふだん〝研鑽態度〟の研鑽の必要性に迫られる暮らし方をしている。
「そんなこと出来るか」と一方的にキメつけるのでなく、「どうしたらそんなこと出来るのか聴いてみよう」と相手の身になって何を言わんとするかの研鑽態度がなかったら話が一歩も進まないのだ。
すると「そんなに言うなら、どうしたらよいのや」、「石にもこそばゆいところあるし、下の方掘ってみるか」、「そうか、こうするのか」となって研鑽が進み出す。
やる気になって研鑽したら活発に意見が次々と出てくるところが面白い。
研鑽態度こそ凡てが納得解決されていく鍵なのだ!

日常的に「本当はどうか」という研鑽態度でやってみようとすることを、「と」に立つ実践とも言うのだろう。
先の日馬富士の問題でも、対立・反目・確執・暴力等あり得ないのが本当なのに、「それは絵空事にすぎない。現にあるではないか」と〝混線〟しているところに間違いをみる。
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