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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(106)

頑固・我利・我執抹殺

そうした〝我抜き〟研鑽の実際をもう少し見てみよう。〝我抜き〟なるものは自分らの暮らしのなかでも、例えば

“一通の急信によって、どんな忙しい中でも、遠隔の地からでも、取るものも取りあえず、頑張っていた頑固さをサッと抜いて自分ではそれを意識しないで兄弟近親の元へ馳せつけてくる”(『山岸会事件雑観』)

ように、自覚の有無は別として日常的に事実やられていることだ。だからここでのテーマは、自分の〝頑固さをサッと抜く〟ことの効用というか事実の中に秘められている値打ちを知ることにあるのだろうか。
ところが実際に「太平洋の怒涛へ断崖から飛び込め」とか「千貫匁(3750㎏)の石を動かせ」と本気になって迫られた時に、僕はいったいどうしたらいいんだろうか?
「そんなこと出来るはずがない」と頭が真っ白になってしまうのがオチだ。
こんな話を聞いた。
「ある時の〝剛我抜き〟研鑽で、どう考えても我執と思えないことを我執だとキメツケてやるわけ。たまりかねて先生(山岸巳代蔵)に言うたら、我抜きについては何もいわない。我抜きは否定しない。
我のない人に、幾ら我抜きをやっても無害だから。やはり、いくらやってもよいと言う。」
そのことは次のような水と布の例えでも語られる。

“まあ、コンクリートの川みたいなもの作って、鉄条網を杭打っておいてみたら、衣みたいなものを流してみたらよい。相手がなんぼ引っかかるものを持っていても、水みたいな、こっちに引っかかるものがなければよく分かる。私の考えはいろいろあっても、引っかかる時は帯や着物があったら引っかかるが、水やったら引っかからへん。
研鑽学校へ行って試験してみたら分かる。引っかかってる者が、それだけ損よ。勝手に引っかかってるのやから。うっとうしい目をせんならん。”

そこまでも打ち込んでやるほど値打ちあるものだということだ!
また「私は我はありません、あなたの言うことよく分かりますわ」も怪しいという。
指にトゲが刺さった時、こっち向けに撫でてたら痛くないが、ちょっと逆向きに撫でたら痛いというのを抜くようなものだと〝我抜き〟をトゲ抜きにも例えている。
トゲが刺さる

とにかく抜かんことには何も始まらない。自分の意に沿う調子よい時は「良いな、良いな」と言って、ちょっと逆撫でされると「あっ痛っ」と言うのが大方の姿なのだから……。

いったいこうした〝我抜き〟の先にどんな世界が展開しているのだろうか?
だがしかし、自分らはもちろん宗教や修養会でもその克服が重要な課題とされる我執について、他にもっとやることがあるからだろうか、そんなに〝無我執体得〟に魅力(?)を感じない。どうも寒夜に滝に打たれる荒修行をイメージしてしまいがちでつい腰が引けてしまうのだろうか。確かに戦争や争いの元になっている我執はないほうが良いのは理解できる。だからといってどうしても自分の我が頭をもたげてくるのを抑えられない今の処仕方ないのではないか、というのが大方の率直な意見ではないだろうか。
ただやみくもに〝無我執体得〟を唱えるだけでは、広大無辺の〝ただ愛のみ〟の我の表現の起らない世界から来るものがちっとも湧いてこないのだ。
何故なんだろうか? 

“自分の我執はむろん、世界の我執をなくすることを、総てのものの始めとしよう”(1961.3.15 山岸巳代蔵 口述)

自分はもちろん他の人のまで抹殺する〝我抜き〟こそ、自分の生き甲斐・命というか全人幸福への一番の近道に見えているのに、どこか修身・修養・道徳的な寡欲高潔な人格像に遮られて今日では死語となりつつある。

ふとした機縁から気付いて、心が転換して、あの我が抜けた時の何とも言えん気持ちに立ち返って、そこから出発することで

“こんなにも仲良く、親しく、溶け合えるもの、好き合えるもの”

の歓びが展開する、そんな我を超えた〝Ecstasy〟を誰もが求めているにも関わらず……。
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