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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(109)

メビウスの輪・二人の一体
メビウスの輪

山岸巳代蔵のこうした複数の女性との〝愛情研鑽現場〟での狂態、本人はそこから真なるものへと打ち続く本質的な世界への入口を見出したとも言うが、あまりに理解をはるかに超えたものだった。

“甘えているものではない
 二人の女等にこだわっての問題と違う”

と自己弁明しつつ、

“理念と現象と、一貫して見ないと。”

ともいう。
もちろん自分らも所謂複数婚の修羅等に眩惑されてはならない。ヤマギシズム結婚観の核心部分へと分け入っていきたいと思う。
手がかりとして、例えば先の〝柔和子に寄せる〟に次のような一節がある。

“本当の僕になりきって聞いて欲しい、知って欲しい。”

という。例えば乱暴している姿を見て、非難しないで、苦しいのだろうなぁと共に苦しむ〝同情者の立場〟でもなく、何であんな事するのかと〝何故の立場〟でもなく、検事、裁判官や教師の立場でもなく、

“顔も姿も心も体も、年令、性別も凡て、全く愚かさも、幼稚さも、僕そのままになって聞いて欲しいよ。淋しがりやで、自制心のない僕になりきってね。”

と、判断等、後の後の回しで、寸分違わぬ同じ僕になりきってね、と呼びかけているのだ?
どういうこと? 〝本当のお互いになりきる〟なんて、そんなこと実際可能なのか?
あの表側がいつのまにか裏側に繋がっているという不思議な〝メビウスの輪〟のようなものか?
次のようにもいう。

“僕と柔和との恋愛結婚は真なるもので、心・情・感等の世界では、我執の出没によって波立ち、言動・現象は結婚したり、解消したりしているように見誤られるが、感の世界の基なる無感の真の世界では、恐らく絶対動かない、離れようのない真の結婚だと思う。
従って何時か其のいずれか(両方にありそう)にある我執が消えた場合、心も現象も完全無欠の完全夫婦と必ずなるであろう。
過渡期に如何なる波乱万丈の混乱事象が起ころうとも、末は必ず真なるものに落ちつくもの。
人間であるから思い違いはいくらでもある。それは赦されるが、それを持ち続け放そうとしない我執は、いつでも赦されない。自分が苦しみ悩むものである。”(我執の害毒は殺人狂よりも悪質なり)

いったい何を言わんとしているのだろうか。
ここでは我執の有る無いは問われていない。これほど〝我執の害毒は殺人狂よりも悪質なり〟と断言しているわりには、〝我執の出没によって波立ち、言動・現象は結婚したり、解消したりしているように見誤られる〟と我執が有ることに案外寛容なのだ!? たんなる修辞的な逆説表現だろうか?

否、それが〝我のある世界での研鑽態度〟なのだ。自分が気狂い、乱暴者、ひねくれ者、我で苦しんでいる幼稚な人になりきって、〝同じ二人が一つになれてから〟、そんな〝二人の一体〟から仲良くほのぼのの気分で問題を解いていこうというのだ!
この間の愛情研鑽現場で、ヤマギシズムと現実との、どうも相一致しない矛盾に翻弄され続けてきた。真なるものには、悩み・苦しみはないのが本当なのに、いったいこの苦しみはどこからやってくるのか?
理屈ではその通りだと思うが、そうなれませんと言っている相手を、これでもかこれでもかと責め苦しめ、自らも自分で自分をどうすることも出来ない苦しみから脱却できい責め手、受難史の数々。
それが今や、そうも行かない不思議な謎が解けたのだ!
それが〝我のある世界での研鑽態度〟、〝本当のお互いになりきる〟ことだった。一体になることが先だった!?
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