FC2ブログ

自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(113)

〝何でも二つある〟

振り返ると日々の生活の中で繰り返し呪文のように、〝何でも二つある〟というフレーズを自分に言い聞かせつつ現実に立ち向かおうと心してきた。
ここでの〝何でも二つある〟というフレーズは、例えば次のような文脈が出どころであるに違いない。

“幸福といっても二つあり、一時的の喜びは本当の幸福ではなく、仮の幸福感に過ぎないものです。”

つまり自分らは普段何気なしに幸福の意味を喜怒哀楽を伴う不幸に対しての対句で捉えていて、幸福だとタダそう思っているのみの、〝感〟だというのだ!?
その昔『二つの幸福 真の幸福と幸福感』(山岸巳著)という小冊子を資料に研鑽したことがある。そこでの小見出しをあげてみる。
二つの幸福

○仮の幸福(幸福感)に生きる愚かしさ
○感(幸福感)人種の如何に多き事よ
○真の幸福はいずこに……方法あり、具現方式で
○山岸会の結合とその活動
○ヤマギシズム社会は 幸福研鑚会から

つまり幸福研鑚会から、宗教・神仏に依らなくして、幸福感でない、真の幸福が得られるのだという!?
その頃は(否、今も?)幸福と感じる〝感人種〟そのものの自分しか知らないからか、〝真の幸福〟のイメージをリアルに思い描くことが出来なかった。逆になぜもっと詳しく〝真の幸福〟についての解説がないことが不思議というか不満でならなかった。
まあ、〝真の幸福はいずこに〟と問われてもねぇといった心許なさを感じながらも、この幸福感と真の幸福を区別する〝何でも二つある〟は研鑚会でどんどん拡張されていった。曰く

○人間の思い考えと真理、真実、事実、実態
○暗く見る観方と事実その中で強い自分を見いだす二つの逆の考え方
○二つの事実
○食べたいから食べるのと、食べなくてもよいが食べる
○失敗型と成功型
○共同と一体
○宗教と研鑽 等々

例えば今もって心に焼き付いている〝二つの事実〟談がある。
戦時中の飼料欠乏時代に養鶏組合の責任者だった山岸巳代蔵が牛も好まぬ粗飼料を調達して組合員に分配したところ、多くは食べさせずに鶏を痩せさせて皆の不評をかった。ところが山岸巳代蔵の鶏舎ではどの鶏も皆満腹し落ちついてよく肥り満足そうに卵を産んでいたという逸話がある。
この養鶏の達人談のようなことが八〇年代ヤマギシの有精卵の増産要請が一気に高まり、暑さや産み疲れや病気に負けない頑健な消化器の鶏体造りをねらって大量の青草やモミガラや焼酎粕のような食品副産物・廃物の活用もかねた給与を始めた頃、他人事ではなく同じ現象に直面したことがあった。 
というのも、ある日の鶏や豚や牛の飼料専門研鑽会で「ヤマギシズムでは餌代が安いほど鶏が健康に育つ」と聞いたのだ。その時は、原因と結果を逆さまにしたような表現にオカシミを感じつつ、何はともあれ、軽率にそうか安ければよいのかと、ある時単価の安い粗飼料を一度に多く給餌してみたのだ。
すると案の定、鶏を痩せさせて皆の顰蹙(ひんしゅく)をかった。打ちひしがれた。いったい自分の何が間違っていたのか?

確かによくよく観れば、例えばモミガラ一つとっても、こんな栄養もなく消化しにくい硝子繊維の固まりが餌になるとはとても思えない。事実食べ残しの餌を捨てる餌箱掃除で忙しくなり、しかも下痢便の鶏が続出したりでモミガラは厄介者にしか見えなかった。
反面またウイスキーを製造する際の液体粕とモミガラを組み合わせて給与してやると、なぜか鶏が喜んで食べつくす事実もあった。
モミガラは食べ残す、食べないという事実に対して、よく食べる、食べ残さない、という事実もある。
このモミガラを食べさすという小さな一事に、二つの事実がある? それって、どういうこと? とても不思議なことに思えた。人生上超難問題に取り憑かれた気分が続いた。

そうかあ、モミガラがダメじゃないんだ。モミガラを食べ残すようにするには、食べ残すようなやり方をこの自分がやっているからだ。食べ残さないという事実は、食べ残さないようにするからだ。そんな発見にも似た驚きが今も続いている。
〝出どころが全く異う〟のだった!
〝真の幸福〟を幸福と感じる〈私〉が確かに実在する!
関連記事
スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する