自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(114)

〝握り飯と餅〟の譬え

なかでも〝観念にも二つある〟と知らされて驚いたことがある。

“観念も二手ある。理念からくる観念と、理に反しててもよいとする観念よ。何か分からんものがあるとする、それ研鑽態度よ。明田さんも「何か分からん、それを知りたい」と言う。それ研鑽態度よ。だが分からんままに放っておいて、理念の検討やらないで、現象を言って信者を作る危なさよ。(略)
理念を軽く見るのと、これほど大事かと。「卵の価値は〝生きる力〟だ」と聴いた場合、「ああそうかな」となるのと、「何も形してたら、売れたらよいやないか」と。これは握り飯談義かと思うの。たくさんの人達に影響のあることは、なおさら考えてほしい。
観念と理念を分けて下さいね。”

観念にも〝理念〟、理に立った観念と〝非理念観念〟、ただ無智な理を忘れた観念と二つあるのだという?!
確かに当時(1960年)ソ連・中共・北朝鮮の一糸乱れず明るく楽しく仲良くやっている共産主義の全盛期の姿を見て、あれは初期の希望に満ちている段階に過ぎないと山岸巳代蔵はその正体を見抜いていた。
唯物論も一つの観念に過ぎず、何故そうなったかの過程を検べないで、現象界で仲良くいけたら良いとする危なさ、〝握り飯談義〟に警告を発していた。
月の世界へ何ぼ行けても、やはり解決できないものがある。今の姿は、人間社会はこんなものだと観念づける〝非理念観念〟からの〝仮の現象〟にすぎず、真理に即応する〝理念〟に立つ信じ込まない研鑽態度からの現象化される実態とにハッキリ区別される。

そうした〝出どころが全く異う〟にもう一歩踏みこんでみる。
〝二つの幸福〟についても、〝幸福感〟の延長線上に〝真の幸福〟が現れる訳では絶対にない?! タダそう思っているのみの〝感〟から出発しては、世界中からひとりも不幸な人が無くなるようにはならないのだと。
以前ヤマギシの実顕地造成の過程で、まずは無理ないところで共同経営等で段階的に試しつつ、良かったら実顕地化つまり〝共同から入って一体へ〟を目指したらどうかという意見もあったと聞く。
そこでよく〝共同と一体〟の異いを、〝握り飯と餅〟の譬えで論じられてきた。

山岸 〝一体〟を言っていた。僕が言ってるのは、餅の譬えを出したのは、「人間はみな餅だ」と、心の中に思ってるのよ、そういう心で言ってるのよ。皮をむき、蒸して、搗いたら餅になると。
現在、「一体、一体」と言ってて、一体になってないのは、「我の皮をかぶっていて、それをむかんことには一体になれない」と、これを言わんとするのよ。餅でも皮をかぶってる間はどっちに搗いても餅にならない。
やはり一体を出すのが先や。またばらばらになるものを先に作って出すより、一体を先に出してと、これを言うのやけど、これを聴かないで、ちゃんと自分の考えで早分かりする危なさよ。”(第一回ヤマギシズム理念徹底研鑚会記録より)

ここまで〝共同と一体〟の異いについてハッキリ解説されているにも関わらず、どうしても〝自分の考えで早分かりする〟のかバラバラの〝握り飯談義〟にはまり込んでしまいがちだ。
おはぎ

なまじ中途半端な〝ぼた餅(おはぎ)〟のように表面上は固まっているために何ぼ搗き上げても餅になれないでいるのかも知れない。
それぐらい「人間はみな餅だ」から出発するという次元の〈転換〉を意味するものの大きさをしみじみと感じる。しかしここの個所が、いっとう分かりにくいのだ。
本質的な異いをかれこれ口で言い、文字で書いてもどうしても〝共同から入って一体へ〟の文脈としてしか受けとめられない。それは普段の自分らの使い慣れた慣性観念からの考え方でもあるのだろう。
ただもう〝仲良かったら良い〟〝健康だったら良い〟とする社会通念に盲信し続けるのか、やはり自分から殻脱いでもっと底の本質的なものから検べていこうとするのか。
関連記事
スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する