自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(118)

見ずして行うなかれ!

その解剖学者三木成夫の記述にあったゲーテの〝不可思議な転換〟についてあくまで自分勝手な推測にすぎないが今少し続けてみる。
1953(昭和二八)年「山岸会」が発足した年の暮れ、名古屋の養鶏専門誌『家禽界』の記者が京都地方の孵卵業者の得意先回り中に風変わりな養鶏の話から、その不思議な男、山岸巳代蔵に三日三晩旅館で書き上げさしたのが『山岸式養鶏法』だった。
山岸式養鶏法

その巻末は次のように記されている。

“今までに発表した断片的なものを見聞して、各地から、何か参考書をと所望され、また出版の呼びかけがよくありましたが、今これを書こうという意志はなかったところ、これは水害後の出来心で、用意もなく取り急いだため、纏まらない事甚だしいです。若い時に作成した自分用のデータ等少々残ってあったものまで逸失して、今になるとちょっと惜しい気がします。私には記憶力がなく、何か読んでも、頭に入れておくことが煩雑なので、そのエキスだけ吸収することにしています。人の名・年代・地名或いは文章までも努めて忘れる。ことに数字はなおさら覚えないことにして、それがどこを指しているかという程度で充分で、資料はなくしても私としては不自由はないのですが……こんなことで果たしてどうか……整理が出来ていないので重複した部分があります。
機を得て何れ削除・補綴を加えたいと思います。風袋が多くなり過ぎました。〝見ずして行うなかれ!行わずして云うことなかれ!〟の数語に尽きるものを。ではまた。(1953.12.)”

ここでの〝見ずして〟とは、何を〝見る〟ことなのだろう?
これこそ先述の「万象悉く流れ、移り行く」の一節に、心境の変化に伴って栄枯盛衰のはかなさやむなしさを見ていたものから宇宙自然界の底に息づく生命力というか美しさ・豊かさ・温かさの源がそこはかとなく広がっている自然全人一体の姿を見るということではなかろうか。
三木成夫はそのことを〝人間進化の究極の出来事〟と見なすのだ。
それはまたゲーテの眼に映じた大宇宙の森羅万象の〝ひとつのものが色とりどりに容姿を変えて見せる、そのような動き〟として眺める……というところと重なっていく。
宇宙自然も、人間そのものも、人為的な業績も、一日として〝後返り〟しない。常にとどまることなく流れ続けてゆく姿ではないのかと。
山岸巳代蔵もまたそうした秘められた実態の中の、

“人間の考えよりのものの中には、正しさに於て、方向を誤り、正しいと思っていること自体が思い違いで、大変な逆方向へいっていることがずいぶんある。”

と見なして、本来の姿・人間復帰へのスタート、考え方への切り変えを第一義としたのだった。
そして先述の、
〝稲は一生元気で暮らして良い子孫を残したいと稲穂を実らせ、美果が甘露を湛えて人を待ち、太古の昔から鮭が故郷の川へ産卵のためにさかのぼっていく〟姿に、万象悉く流れてゆくものを見たように、
自分らもまた〝生まれ、育ち、子を生み、生活し、老いて死ぬ〟世代交替の〝後返り〟しない繰り返しに、とどまることなく流れ続けてゆくものの本心を見る思いがする。
これこそ理念と自分との間を結びつけるものの正体ではなかろうかと実感されてくるのだ。
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