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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(122)

二人一人格

毎朝見上げるメタセコイヤの大きな樹がある。最近はもう初夏の若葉から深緑へと移りゆく一本の円錐形の樹形としか見えない。が、しかしそれまでの冬枯れのメタセコイヤはさまざまな想念が去来する実に味わい深い一本の木だ。
というのも写真を見てもらえば分かるように、上部できれいに幹が〝二股〟に分かれているのだ。一本の木が二本に、二本の木が一本に……。
メタセコイアの樹

先の〝二人の一人格〟がイメージされてきて、なにか飽きることのない姿とでもいうか秘められた実態を垣間見たようなドキドキ感を毎度覚えるのだ。
晩年の山岸巳代蔵がいっていた、

“〝同じ二人が一つになれてから〟、そんな〝二人の一体〟から始まるものがある”

これってどんなこと何だろうと思いをめぐらす。たしか〝一つが二つ〟にも二つあったはずだ。ここでは〝不幸との対句ではない〟本来の姿からの一つから発する二つのことだ!
あの旧約聖書の中の一節

“そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。
「これこそ、ついにわたしの骨の骨、
わたしの肉の肉。
男から取ったものだから、
これを女と名づけよう」。
それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。”(創世記2:21~2:25)

に重なるのだろうか。
一体の夫婦から始まる本当の仕事があるのだという!?

“そこで、「夫婦とは」、「人間とは」と検べてみて、先ず夫婦一つだとの観方に立って、男と男と寄ってするより、夫婦が一つになってする仕事の方には、本当のものという意味で質の異うものが出てくるので、半分でやったのでは、本当の仕事になってないというのも出てくる。
〝一つ〟というのは、離れていようが〝一つ〟が先ず根本になるが、肉体も言葉のやりとりもあるから、出来れば、現象界でも、心の世界でも、〝一つ〟がなおよいのだろう。心が〝一つ〟なれば、離れていても相当良い仕事が出来ようが、もう一つ、〝一つ〟に仕事すればなお良い仕事が出来るだろう。そういう状態にもっていく今の段階。〝一つ〟になって仕事した方が、二人がこっちの持ち味、こっちの持ち味といってやるより、質の異う本当の仕事が出来ると思う。”(第四回ヤマギシズム理念徹底研鑚会)

〝質の異う本当の仕事〟って、どんなこと何だろうと興味は尽きない。
そう言えば次のようなやり取りも興味深い。

山岸 山のあり方なんかだいぶ変わってきて、炊事へ夫婦で行き、人事も夫婦で、と何でも夫婦でいくと、今までゴテてたことが具合よくいくらしい。そういうふうにだんだん変わってきて、やってみると、だんだん能率が上がってきた。また楽しいという。研鑽会も夫婦で出る。総務も夫婦で一役だから、奥さんも一緒に出てるから話もみな通ずる。主人が留守の時も代理でなく、総務として来ているとなっている。総務も十人で十夫婦で二十人。
雄治 船頭が多すぎるのと違うか。
山岸 それが育児、文書、教育となっているので、出てくるとみんな関連があって出来る、といった便利。
雄治 「その人でなければ」と、まごつくことないしな。
山岸 寝てる間でも、夫婦で相談できるらしい。なかなか賑やかになってきたし、物事が簡単に済んでいくらしい。子どもの係でも、最も適当な人が、大事なことやから、しかも夫婦でいく。”(ヤマギシズム生活実顕地について1960.10.6)

そこまで行くの?
二人、即ち〈と共に〉からひらけてくる世界があるというのだ?
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