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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

23 囚われからの脱出

「楽しみ、歓びばかりの結婚、恋愛、人生が本当で、それが必ず実現できると思う。ところが今日なおそうならないのはなぜだろう。それには原因がある。そしてその原因から解決しよう。
これは真面目に考えてみることで、それを願いながら、そうならないと云うことは、願うばかりで、実はそうなるようにせないからで、なるようにすれば、必ずなる。むしろ、ならないようにし、かえって逆の結果になるようにしているからである。
成るように願い、なる方法だと思っていても、成らない方法を、なる方法だと思い違いをしている」(山岸巳代蔵)

この一節に触れると、きまって自分自身の吃音体験が思いおこされる。

「僕は20歳だった。それが人の一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」(ポール・ニザン『アデン・アラビア』)

その頃、ある文芸雑誌で小説『凍える口』(金 鶴泳) に出会った。まるで自分のことが書かれているようでむさぼり読んだ。

「ぼくは、思うことを思うとおりに、すらすら話すことができない」
「吃り易い言葉とそうでない言葉とがあり、ぼくはできるだけいい易い言葉を選択しておかなければならないのだ」
「ただ、吃ることによって受ける精神的神経的衝撃、その屈辱を、ぼくは何よりも恐れていた」
「〈ああ、吃りでさえなかったら――〉」
「いわば、吃るべくして吃っているのである。それは、当人にもわかっているのである。わかっているのだが、そのような状態になってしまう自分を、自分ではどうすることもできない。そうなるまいと気をつけていても、いざとなると、やはりそうなってしまう」
「ぼくは、吃音に囚われているのだった」

そうか、自分は「吃るべくして吃っているのか」! 

「窮すれば通ず」とはこのことだった!
囚われからの脱出は、あっけないほど易しかった。
〈出発点〉はまさに〈実践〉だったのだ。
はじまりと「そう成る方法」は一本コースなのだ。その道を通る以外には到達できないのだ。
吃らないようにと、そう思う、思わないにかかわらず、出発点に立ち一歩踏み出すこと、じっさいに言葉を現実的に最後までツナイでみせる以外に方法はないのだ! 誰もが日頃当たり前にやっていること。

そしてそこでこそ、人の中で自分も気づかずに話している事実を見られるのだ!

この発見にも似た事実・実態と思い・考えとの次元の異いを思い知らされたことだった。

要は、「成るように願い、なる方法だと思っていても、成らない方法を、なる方法だと思い違いをしている」ならば、「成らない方法」を捨てて、「そう成る方法」に乗り換えるしかないのだ。

こうした自分の思い(意志)どおりにならない「事実」に何度も直面して挫折感に打ちのめされつつも、じつはそのさきに展開する「事実の世界」の発見と同時に、そこから齎される歓びに重なるかのように自分のヤマギシズム探求ははじまる。


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