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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(125)

フーコーの中での〝転換〟

否、世界は広い。もう一人あのフランスの思想家ミシェル・フーコー(1926-1984)がいた。
ミシェル・フーコー

そう言えば本稿のタイトル「自己への配慮」も、近・現代では自己中心主義とか引きこもりを意味するものになっている〝自己への配慮〟という概念をヒックリ返して、むしろ肯定的な価値を持つものとして新たな命を吹きこんだフーコーの講義録から採ったものだった。
晩年の山岸巳代蔵が無固定の〝愛情問題〟に没入したように、かのフーコーも真理に即応する自己は、自己主張するなど自分という己にはなく、〝自己自身への配慮という愛情〟(「倫理の系譜学について」)それ自体にあるのではないかとキリスト教以前の古代ギリシア・ローマまでさかのぼっていく。
亡くなる三ヶ月前の最後の講義のための草稿の締め括りに次のような言葉を遺している。

“最後に私が強調しておきたいのは以下のことである。すなわち、真理が創設される際には必ず他性の本質的な措定があるということだ。真理、それは決して、同じものではない。真理は、他界および別の生の形式においてしかありえないのだ。”(『真理の勇気』)

ここでの〝措定〟の意味を、欠かせないものとして定めること、それ無しではあり得ないと定めることをいうなら、〝必ず他性の本質的な措定〟とは、山岸会会旨=「われ、ひとと共に繁栄せん」の精神に重なるにちがいない。主体はわれにも、ひとにもなく、「共に」にあるのだから……。
山岸養鶏でいう〝鶏を飼う場合の鶏や、社会との繋がりを知る精神であって、自分一人よくなろうとの精神では、養鶏も絶対に成功しないとの原理精神のことです。〟
の〝繋がりを知る精神〟にも重なるにちがいない。

第一巻『知への意志』の刊行から八年が過ぎ去っていた。こうしたフーコーの沈黙に、「彼はもうおしまいだ」「行き詰まっている」といった数々の噂が流れたという。
それが死の直前に刊行された第二巻『快楽の活用』、第三巻『自己への配慮』の中で、真っ向から〝性〟と〝倫理〟と〝真理〟の問題に向かい合うのだ。
いったいフーコーの中でどんな〝転換〟があったのだろうか。
晩年のインタビューで次のように語る。

“うまくいかないと気づいたのは、その仕事(『知への意志』)をしながらでした。重要な問題が残っていたのです。
すなわちなぜわれわれが性から道徳的な経験を作り上げたかということです。そこでわたしは十七世紀についての仕事ここからを放棄し、閉じこもって時を遡り始めました。
キリスト教の初期の経験を調べるためにまず五世紀に、それからその直前の古代の末期に。最後に三年間に、紀元前四世紀と五世紀の性についての研究で締めくくりました。”

そこから近代のキリスト教の道徳とは対照的なギリシャ・ローマにおける性道徳の形成を見出す。それは、

“性行動はギリシア人の思索のなかでは、愛欲の営みという形式、つまり統御しがたい力の闘争の場に属する快楽行為という形式のもと、道徳的な実践の領域として組立てられている。”

そしてそこからさらに、近代的な主体概念とは全く異質な主体概念を発掘する。
それは自己との関係はまさに性において創出され、実現されるという新しい生き方、新しい道徳がそこに展開されているのを見たのだ!
この性の道徳では、文字通りの〝快楽〟の活用やコントロールなどの様々な実践と鍛錬を通して、自分が道徳的な主体であることを確認し、自分の生き方そのものを〝生の一つの美学〟として顕現することにあった!
ここから欲望をもつ人間が〝性〟を通して真理にまで結び付く道筋を辿っていくのだ。
要は真理とか自己は認識したり描いたり解釈するものに留まらず、実践する・生きるべき・顕す・もたらされるものへと転回させたのだ。

それは人間の恋愛・結婚観の底に流れる〈性〉の問題は、快感、快楽、習慣、家族制度、風俗、禁忌と侵犯の問題にとどまらず〝真理の問題〟に入っていくものだという発見だった。
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