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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(127)

自ずと湧いて来る人の情

ここで先の吉本さんの〝性の問題〟は人間にとって部分的なものだと一貫して見なす吉本幻想論について今少し触れてみる。
もちろん一人の人間だから、自己のなかに三つの観念が合わさって混合してあるのだが、
吉本幻想論

“皆さんがこれから生活していくときに、「個人としての個人」と「社会的な個人」をきちんと分けるようにしたほうがよいという話をしましたが、もうひとつ、人間には「家族の一員としての個人」とでもいうべき側面があります。(略)
「家族の一員としての個人」は、この二つの、いわば中間にある概念です。
家族とは、「個人としての個人」同士が、性的に結びつくことによってつくられるものです。どんなに大人数の家族も、もとをただせば一人の男と一人の女の関係から生まれます。
男と女が、性的な関わり――肉体的な関わりと精神的な関わりの両方を意味します――を根幹として一つの単位を構成し、そこから子どもができ、孫ができ、親戚が増え……というようにして広がっていくのが家族なのです。(略)
「個人としての個人」(自己幻想―引用者注)
「社会的な個人」(共同幻想―引用者注)
「家族の一員としての個人」(対幻想―引用者注)
この三つは次元が違いますから、何か問題が起こったときの解決の仕方も違います。ごちゃまぜにしないで、それぞれ別個に考えることが必要です。”(『13歳は二度あるか』2005.9大和書房)

そうすれば、三つの次元をごちゃ混ぜに受けとめて不用意に傷ついたり、自分が分裂して悩まなくてもよいのだと諭される。

こうした吉本さんからの助言に、〝そうだったのか!〟と随分励まされ救われた思いがしたこともある。
例えば現状の社会を少しでもより良い社会にしていくにはどうしたらよいのだろうかと四六時中まじめに(?)心の中で考えていると、日常生活の中で〝そうしなければならない〟といった不自由感、拘束感、自己欺瞞性に強く囚われる心理状態に陥ってくる!?
そして他人のちゃらちゃらした言動が気にかかってくる。
「あそこの奥さんはいつもパーマかけている。美容院に行く金どこから入るのだろう?」
「あそこはいつも砂糖をもらいに来る。そんなにたくさん何するのかいな?」
「あの人は夕方五時にはもう風呂に入っている。仕事をサボっているようだ」等々。
普通の家庭だったら、なんでもないありふれた隣近所のうわさ話ですむところが、同じ目標で集まった集団であるから始末が悪い。
典型的な誰もが陥るにちがいない〝理念と宗教〟の混線、混入ぶりである。随分振り回されたものだ。
あれだけ繰り返し口喧しく、

“信じないで、絶対正しいとしないで、やってみたらよいわね。”

と〝理念と宗教〟の区別を研鑽してきたつもり、言われてきたにも関わらず……。

だがしかし確かにそのようにも分けられるかもしれないが、それで〝矛盾〟が解消するわけではない。
なかでも〈性〉や家族といった〝私的〟な世界に関わるテーマほど矛盾に晒されやすい。
吉本さんはこうした個人から出発した三つの次元の一部分として〝人間の性愛〟世界を捉えようとされている。
例えば次のような場面がある。

“世で鬼のように云われる冷血漢でも、家庭ではよき夫であったり、やさしい父として心中に涙することもあります。”(『ヤマギシズム社会の実態』山岸巳代蔵)

この場面は吉本さんから見たら、

“〈性〉としての人間、いいかえれば男または女としての人間という範疇は、人間としての人間、いいかえれば〈自由〉な個人としての人間という範疇とも、共同社会の成員としての人間という範疇とも矛盾している”

と見なして、つまり次元が違うということを認識した上で、それぞれの次元についての考えをすすめたらよいとされる。

ここのところをヒックリ返して〝人間の性愛〟世界から出発できないものだろうか? 
〝家庭ではよき夫であったり、やさしい父として心中に涙することもあ〟るという、自ずと湧いて来る人の情から出発できないものだろうか?
言い換えると〝先ず自分が〟と突っ張りたくなる〝自分や自己や個人〟の考えから出発しないで、〝自ずと湧いて来る人の情〟に立脚しようというのである。
ここでの〝先ず自分が〟と、〝自分や自己や個人〟を省みることのないみずからの元の心に巣食う「所有」観念こそ真っ先に問われてくるのかもしれない。
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