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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(128)

幻想領域の関連図から

吉本さんの〝共同幻想論〟をうまく視覚的なイメージで表現できないものだろうかと考え込んでいた矢先、「与論島クオリア」を展開されている喜山荘一さんのサイトに出会った。
そこで、吉本隆明が設定した人間の観念領域、「個人幻想」、「対幻想」、「共同幻想」の三つはどう図にできるか、その試案です。として次のような関連図が示されていた。
喜山荘一 吉本幻想論の構造試案

なるほどなぁと感心した。
一つは「共同幻想」と「個人幻想」は〝逆立〟する関係にある。
例えば気の合う仲間同士で毎週集まろうといった〝決まり事〟を全員オール納得でつくる。しかし、そのうちに一人がある都合で出席できなくなる場合がある。すると、欠席する人には〝決まり事〟が重荷や抑圧や縛りに変わってくる。その辺りを〝逆立〟というのだろうか。
もちろん〝決まり事〟(共同幻想)なんて、個人の意志によっていくらでも原則変えられるはずなのだが、宗教・法制度・国家へと進展していく社会の共同幻想となると権利・義務などの様々な縛りが複雑怪奇な形相に変貌して介入してくる。中身は仲間同士の〝決まり事〟と原則同じだとはとても見なせなくなる!?
また男女の問題や家族の問題を含む「対幻想」の位置は、「共同幻想」や「個人幻想」とも異なり、たんに〝幻想〟としてのみ片づけられない〝永遠性〟を繋ぐ価値を内包しているはずだ。
そうした意味で、「共同幻想」と「個人幻想」の間に位置するのがふさわしい。「対幻想」の人間愛を基調とする本質が「個人幻想」に関わって〝芸術〟が、「共同幻想」に関わって〝母系制で同致〟の世界が現出するのだろうか。
先に吉本さんが、「ヤマギシ会という共同体の一体理念」が深まれば深まるほど、却って〝男女の結びつきが圧迫される〟という懸念」を抱かれていた発言は、ヤマギシ会は共同体の理想の原型として〝男女間と共同体との水準の同一化〟、つまり〝母系制で同致〟の歴史段階を想定されていたのではなかろうか?
もっといえば、対幻想が個人幻想や共同幻想に対して無矛盾の状態に一つの理想を描くことも可能だと考えられていたのではなかろうか。
喜山荘一さんの試案図から、〝母系制で同致〟という概念が〝未知の未来に向かって〟とても興味深い新鮮な発言として蘇ってくるようだ。

“人間がある最古の時代に、集団を組んで生活しながら、男・女としてそれぞれ〈性〉的にも組んでいたとするならば、このふたつの場面で人間はどうじぶんを使いわけているのか。そしてその使いわけにはどんな関連が存在するのかということであった。”(『共同幻想論』吉本隆明)

こうした発言から、家族は本来的にどうあったらよいのか?、が『共同幻想論』の一番のモチーフであったのではないかと推察される。
ともあれここでも自分らがやりたいのは、部分的ではない本質的な意味での〝性を発見する〟ことにあるとしたら、こうした対幻想の位置する独自性の追求の中に見出されてくるのかもしれない。
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