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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(129)

『夫婦という他人』!?

吉本さんが定義される〝対幻想〟の概念を今少し挙げてみる。

○人間が男ないし女としてしか存在し得ない世界。
○対幻想の具体的な、現実的な現れとして家族という形態がある。
○一人の人間として他の一人の人間と関係するとか、出会うという場にできる、その精神性は全部「対幻想」と呼べる。
○そういう一人の個人対自分以外の他の一人の個人との結びつきとか関係というのは、社会に対しても、あるいは自分一人に対しても違う精神性として区別される。
○自己と共同性を繋ぐものが対幻想という特殊な共同幻想となる。

こうした吉本幻想論はどのように拡張されるべきなのだろうか?
しかしいきなり〝幻想論〟を振りかざしても何なので、まずは身近な題材から…。
元NHKアナウンサー下重暁子さんの最新刊に『夫婦という他人』という著書がある。早速一読してみて、その率直な語りに好感をもった。紹介してみる。
下重暁子

“一人暮らしなら自立せざるを得ないが、二人暮らしだと、つい甘えそうになったり、よりかかって楽な方法を選んでしまう。結婚のワナはそこにある。”

として、互いにもたれ合わない謂わば他を侵す必要のない〈個で充実し 個で安定する 依存のない生き方〉の実例を自身の体験を通して語られる。曰く

“妻や母という役割が先にあって、夫や子供との関係も、個人と個人のつき合いではなく、役割としてのコミュニケーションなので、お互いに相手を理解することができない。”
“価値観も違えば、作法だって違う。いちいち目くじら立てて気にしていたら暮らしていけない。寛容の精神がなければ、他人となぞ暮らせはしない。結婚は、心の寛容さを養う良き修業の場と言わざるを得ない。”
“自分という個があっての結婚。”
“独立採算制なので、自分で稼いで自分で使う。何も遠慮はいらない。”
“一人づつの生活が二つあるわけで、”
“病気の時以外は、私はつれあいの面倒は見ない。”
“危なくなるとさらりとかわす私達夫婦の間の愛情とは何か。実は愛もその瞬間にすりぬけていっているのかもしれない。”(作家・島尾敏雄の『死の棘』を紹介しつつ―引用者注)
“なぜ結婚なのか。こんなに面倒で束縛されるものはないのに……。”
“一緒に生活するということは情が出てくるはずで、
情とは何か。それは思いやりである。四十年も一緒に暮らしていると、何が嫌で何が好きかもよく分かっている。
思いやりとは、その人の立場や性格や考え方を認めることである。”
“夫婦とは何なのか。二人で一対と考えていたら、どこかでくい違いは大きくなる。私達のように個としてそれぞれ邪魔をせぬように生きていても、時に驚くような出来事に出会う。まったく違う感覚や意見に、改めて違う人なのだという認識を深め、当然なのだという結論に至る。”

なるほど、〈個〉から出発するとこんなふうに結婚・夫婦生活が展開するのかとビックリした。この間、ヤマギシズム恋愛結婚観即ち〈性〉とか〈二人〉から出発する世界の可能性を探ってきた自分らにとって、改めてヤマギシズム結婚観でいう、

“真の夫婦はどこまでも夫婦一致で、二個別々に分けようのないもの、夫婦を切るなれば、男と女に分けられないで、粉々に細断しても、その細片のいずれもが一致夫婦の断片である。”

といえる〝一致〟の世界へとより一層の探究心をかき立てられる思いがする。
吉本幻想論に倣うならば、自己幻想(自己愛)同士の個体と個体を寄せただけの潤いのない造花の世界に住んでいるようなものだ。
なかでも作家・島尾敏雄の作品『死の棘』から夫婦愛の深淵について触れられている箇所で、自らの夫婦愛についてもサラリと省みられてはいるが、本当は作品『死の棘』に圧倒されるだけでなく、反面教師としてむしろそこで演じられた〈性〉の三角関係の修羅場を軽々と飛び出して解消されていく中にこそ、誰もが求める愛情世界が見出されるのではなかろうか? 実は本稿はそこを目指して書き綴っているのだが……。
確かに一人ひとりが〈依存しないで〉〈自力をつける〉という〈個〉であることが社会の安定には絶対に欠かせない要素ではあるのだが……。
そう言えば、

“結婚は社会契約。「つがい」は繁殖期の行動。夫婦は子育ての戦友だ。”(『ひとりの午後に』)

と発言してはばからない「おひとりさま」の社会学者・上野千鶴子さんの考え方にも重なるようだ。
今の社会風潮なのだろうか?
本来〝二人で一つ〟の対関係が、個人と個人の夫婦関係として何の疑いもなく語られるところに今の対立社会の病根を如実に物語っているように思えて仕方ない。
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