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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(130)

正しきに戻す知的革命案

先のベストセラー作家・下重暁子著『夫婦という他人』のAmazonカスタマーレビューでの、〝それぞれの個を尊重して、共に水臭い関係にある〟生き方についての賛否両論が興味深い。
大方は、〝後味が悪い・寂しい・読んでいて心が暗くなりました〟との意見に代表されるのだが、下重暁子さんの本音での語り口の方にも現実味が感じられるのだ。 
どうしてなんだろう?
人間愛が人間社会には不可欠であるということぐらいは、既に過去幾多の宗教家、哲学者、思想家によって度々主張されてきた。それなのになぜ人間愛が、現実社会全体を流れるものにならなかったのだろう? 愛だけではすべてが片付かない現実社会においてはあまりにも無力な抽象的空想的な唱い文句にすぎなく感じられるからだ。人間愛を裏付ける何物かが欠けているからであろうか。ここに理想と現実との相一致しない矛盾に割り切れないものを感じる。
ある意味〝世はまさに逆手なり〟で、

“売ろうとすすめると、手を引っ込める。
取ろうとするから、やらぬと来る。
平和のために戦争し、神に祈って爆弾を恵む。”(「知的革命私案」山岸巳代蔵)

といった交換条件的や報酬期待的な上下感・勝ち負け感・損得金銭計算・所有欲、力の論理・支配者の論理・欲望の論理等々の逆手社会(既成)の常識観を永年通用させてきたからであろうか。
そしてその具体例として

“アメリカに日本の心が掴めたら”、“余剰小麦に剣を包まずに、サンタ爺さんに托し”て、“「日本は狭い、常夏のハワイを自由にお使いなさい」と来たら”、戦後史は塗り替わったかも知れないと、奇想天外な〝知的革命案〟を提案するのだ!? 
確かに逆手社会(既成)の常識観から見たら、付け上がった荒唐無稽な絵空事と一蹴されるのがオチであろう。
しかも当の逆手の世界に住んできた自分ら日本人にとっても、戦争に負けてすごすごと引き下がる〝負け犬根性〟にどっぷり囚われている。ここに今の対立社会の病根の深さ・複雑さを見る思いがする。
だとしたらこうした社会通念の旧い殻を破るのにはどうしたらよいのだろうか。

ヤマギシ会では当初〝鶏〟で「特別講習会」へ人を寄せた。〝鶏〟で変わった鶏舎建てたら目につくし、自分も気づいて、利益も目に見えて、「講習を受けようか」となっていった。
農業養鶏の鶏舎

実は〝稲作〟でもよかったのだが、講習を受けてやった効果がハッキリしないし、変わったことをやる方がどうも失敗したらしい。
だからあんな農業養鶏の鶏舎が日本中に建ったところで、どっちでもよかった。
ねらいは「鶏こそ」「金こそ」と思って飼ったところで労多くして功少なしと気づいてもらうことにあった。誰の心にもある本能的に欲求するものを呼び醒ます呼び水であった。
まずは当面の農家経済を潤す中で「なるほどなぁ」と気がついて、結局は我を張ってたら皆と共にやっていけないことが分かってくる。
方便と言えばいえるだろうが、鶏で寄ってホンモノになる近道ともいえた。
研鑚会では「他よりも優れたい、儲けたい」と思っている参加者を前に、何のために鶏を飼うのかとしつこく尋ねたり、鶏が病気になっても直ぐには治さなかったり、「卵を産まぬのが幸福ですわ」と公言してはばからなかった。現象によって一喜一憂しない人になる方便だった。
こうした常識では分からないことだらけの不可解さに、会を離れた人も多かった。
しかしそうなってからの「鶏も卵も、無いよりあった方が良いなぁ」というくらいの気持ちの中に、〝養鶏する目的〟とか〝人間生きる道の原理〟が秘められていたのである。

それでは「個」であることが価値や権利であり、男女の関係も個人と個人の夫婦関係になっている逆手社会(既成)の常識観を、〝ヒックリ返し〟て正しきに戻すとはどんなことなんだろうか。
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