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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(131)

皆が欲求する源泉の涵養

またかつて昭和30年代一世を風靡したヤマギシ養鶏について書かれた『山岸会養鶏法』の末尾に次のような一文が記されている。

“対立社会(現代社会)と総親和社会(理想社会)との根本的な原理の相違を、はっきりと把握するなれば、凡ての事柄が簡単に解決し、不平不満も、危惧不安も、世の中の紛糾も闘争も一切を無くして、万人がねがってやまぬ真実の幸福社会が実現するのです。”

ここでの〝根本的な原理の相違を、はっきりと把握するなれば〟の一節にずっと惹き付けられてきた。何しろ、ちがいを把握するだけで万事を解決することもできるというのだ!?
そんな魔法のような〝知的なるもの〟があるのだ! 
いったい〝根本的なもの・核心・真髄〟をつかむってどんなこと何だろう? こう問いかけるだけで心がワクワクするのだった。

今日まで理想社会が実現されなかった原因に、現在までの世界の人たちのほとんどが〝手段を目的のように取り違えている〟ところにあると山岸巳代蔵はいう。
例えば鶏で寄って来た人たちの本音は始め、「お金儲けたら幸せになれる」として「鶏飼うのもやはりお金儲けが目的」であった。そしていったんお金が儲かっても、「あっ、これでなかったな」と気づく人は少なかった。目的のための、お金儲けのための鶏を飼うについても、着眼点が違っているが故に〝鶏飼うのはお金儲けが目的〟だとする一つの観念から抜け出せない人が多かったという。

戦後日本の農業者が歩んできた道と重なる。
農業のみでは生活が成り立たないということから、本業としての農業の薄利を補う意味で、何かの副業なり出稼ぎなりを始めることがある。この副業なり出稼ぎなりは、出発においてはあくまで本業を維持する一手段であったはずなのだが、興味が出て面白くなってきたりすると、本業たる農業の使命を忘れてしまったり目前の経済面のみを比較して農業を低く評価したりして、つまるところ本業としての農業そのものを放棄してしまうようなことになる。

知らず知らずのうちに、手段が目的にすり替わってしまう逆転現象を起こしている。真目的ならではの〝みんなが一つになって仲良く楽しく繁栄していく〟といった中身からの感化よりも、心ならずも便宜的手段としての日常行動から来る感化の方が影響が大きいからである。
その人が目的を頭で分かるだけでは、目的そのものが観念的理想論に終わってしまい、その理想論すらいつの間にか忘れ去られていく。

ではどうあったらよいのか?
目的そのものを研鑽することだ。養鶏の場合だったら、〝養鶏する人が目的をはっきり知る〟ことだ。つまり目的の日常化である。目的を今日とは遠くかけ離れた先のことや方向性としてのみ置かないで、日常化する必要がある。自分自身のものというか自分の目的=心にすべきなのだ!
これこそ自分らにとっての〝ヒックリ返す〟革命だった!

先の下重暁子さんの発言に、

“一人暮らしなら自立せざるを得ないが、二人暮らしだと、つい甘えそうになったり、よりかかって楽な方法を選んでしまう。結婚のワナはそこにある。”
仮面夫婦

とあった。しかしだからといって、〝妻が夫に依存〟しない方向に〝かたち〟(方法)を整えることで、対等で自由な人間同士の夫婦の関係が実現するだろうか? 
目的そのものを研鑽するという過程を億劫がるならば、便宜的手段としての日常行動から来る感化に押し潰されること必定である。
むしろ皆が切実に欲求する願いから出発するなれば、互いに〝頼らない〟よりは〝頼りきる〟中に、むしろ必要に迫られて他の人の力を借りなければならない場面で、自ずと湧いてくる謙虚さなど心の状態をまずは涵養することだ。その次に頼りきれない部分を自分で力を付ける後先にあるのでは……。

いろいろの観念で目隠しされていて「本当に自分を気づかなかった」。それがたかが(?)こんな必要性の小さい産業としての養鶏や日々の暮らしを通してその一端を知らされる豊かさを今噛みしめている。
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