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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

24 「事実」の正体

「ちょっとした一点が欠けていたために全部が駄目になることがある。しかもその一点を究明しないで、他の条件を、その原因であるかの如く決めつけてしまう非科学的な、軽薄な態度に気づくことである。(略)
『食べない』、『食べ残す』、『すっかりやせて倒れていく』、『モミガラは栄養価がない』、『繊維は不消化だ』などといわれるが、それに対して、モミガラに限らず他の繊維類も含めて、或いは他の飼料に対しても、こうした考え方で観ていくことで、人間の食糧についても、また食物栄養関係だけでなく、すべての物事に対しても、こういう考え方で観察していくことである。
先づモミガラは食べ残す、食べないという事実に対して、よく食べる、食べ残さない、という事実もある。その間に栄養が有る無しに拘らず、それは使用する大きな目的・効果が他にもある。
食べ残すようにするには、食べ残すようなやり方で。食べ残さないという事実は、やはり食べ残さないようにするから、食べ残さないものである」
「食べたいから食べるのと、食べなくともよいが食べるのと、何でも二つある」(山岸巳代蔵)

モミガラ等粗飼料を鶏・豚・牛等家畜に美味しく大量に食べさして体質改造をはかることで、その個々のもてる能力一杯に営めるような境地を得せしめることこそ飼育者冥利に尽きるというものだ。
自分も一飼育者として「こんなものは食べない」「この鶏は駄目なトリ」「こういう飼い方はイケない」等早のみこみで軽率に判断してしまう自分を嫌という程思い知らされてきた。そして「事実」の正体は何なのかと考えさせられた。
そうした日々のとり組みから、「二つの事実」という概念をあみ出して自らの生き方の指針としてきた。

また「何でも二つある」の研鑚を通して、ふだんの何気ない「腹空いた」事実と「食べたい」という思い・欲求は、まったく別のことであることを知って驚愕したことがある。
何かキメつけ観念を持っての「食べたい」世界とことわざ「武士は食わねど高楊枝」を彷彿とさせる「食べなくともよい」という放して食べる世界のあることを知らされた。

だとするならば、「食べなくともよい」の場所が「と」に立つということだろうか。事実はあれば食べる、無ければ食べれないのだから……。

ちょっとした一点が欠けていたために全部が駄目になることがある。ほとんどは使いこなせていない自分の考え方に原因があるのだが。しかもその一点を究明しないで、他の条件を、その原因であるかの如く決めつけてしまう非科学的な、軽薄な態度から顕れる「食べ残す、食べない事実」
鶏一生、粗食の中から栄養を充分に取り、長期健康で長期生産性を高める生物(自然)の生理的作用等をもっともっと究明・活用することで顕れる「よく食べる、食べ残さない事実」

その部分のみを見て判断する浅い考え方を放すという観念作業だけで、トタンにヒックリかえる「事実」。

「現実」も変えることができないと固く信じ込まれているが、すべての物事に対しても二つの事実という考え方で観察していけるのではないか。

「と」に立つということは、一体観に立つということ。
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