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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(133)

「イェニーさん問題」

ここでの「イェニーさん問題」とは、カール・マルクスの妻、イェニーのことだ。森崎さんは語る。
イェニーとマルクス

“マルクスさんの思想のなかでもっとも可能性があるのは、男性の女性に対する関係のなかに人間の人間にたいするもっとも直接的で本質的な関係があらわられると言っておられるところです。マルクスさんのこの直感のことを「イェニーさん」問題と呼んできました。『経済学・哲学手稿』のなかでもっとも音色のいい言葉はここです。イェニーさんのことを思い浮かべながらマルクスさんはこの箇所を書かれています。”(歩く浄土200)

そう言えば学生時代、岩波文庫版の『経済学・哲学草稿』を読んでは一杯の赤線を引いた記憶がよみがえる。よほど心に響いたのだろう。例えば次のような一節、

“人間を人間として、また世界にたいする人間の関係を人間的な関係として前提してみたまえ。そうすると、君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、その他同様に交換できるのだ。(略)
もし君が相手の愛を呼びおこすことなく愛するなら、すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生みださなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、一つの不幸である。”

たしかにここで新婚ほやほやのマルクスは、イェニーさんのことを思い浮かべながら書いている。
しかもこの文章は〝貨幣〟と題して、貨幣は互いに矛盾しているものを無理やり結び付け、例えば愛を憎しみに変えてしまうものだと論じた後の締めくくりの一文である。
自分らはここから出発しようというのである?
森崎さんもいう。

“マルクスにとってのイェニーさんの関係をひとつの喩とすれば、イェニーさんはマルクスよりマルクスの近くにいる。あまりに近すぎて可視化することも分離することもできない。この性をそれ自体として取りだして対象化することは自己意識によってはできない。性はいつも自己に先立ち自己の手前にある。”

どういうこと?
この間の自分らの文脈に沿えば、先(わが一体の家族考116)で〝心の琴線に触れる場所〟と題した一節、

「“神がそばを通られてもわたしは気づかず
 過ぎ行かれてもそれと悟らない”(ヨブ記)
無いものが、見えないものが見える人になるために、〝ふとした機縁から気づい〟た世界を通り過ぎないために、そこに立ち止まり、踏み留まって、行きつ戻りつを何度も何度も繰り返し表現していくのだ。」

に当たるのだろうか。
軽く見過ごしたり聞き流さないで、そこに立ち止まり、踏み留まって、行きつ戻りつを繰り返していくのだ。
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