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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(138)

未知で未然の〈性〉

先に見田宗介=真木悠介著の『自我の起原』から、次のような知見に触れての感想を記した。(わが一体の家族考128)) 要約すると
○性とは、個という存在の核の部分にはじめから仕掛けられている自己解体の爆薬である。
○自我がじぶんの欲望を透明に追い求めてゆくと、その極限のところで必ず、自己を裂開してしまうという背理を内包している。
○そのことはまた、“産卵死する鮭の個体をつきうごかすものと同じ力”が人間にも貫通しているからだ。
鮭の産卵

“産卵死する鮭の個体をつきうごかすものと同じ力のようなものが、自分の中にも流れているのではないかというのだ。そんな〝あらかじめ個をこえたものの力〟を内包している実態を、〝透明に〟〝それ自体として〟求め取りだすことができると、そこにはじめて〈性〉があらわれるというのだ!?”

個体は個体自身ではない何かのためにあるように作られている。
個体は不可解な力に動かされるように性を求める。
とても刺激的で優れた知見だ。
最新刊の著書『現代社会はどこに向かうか』(岩波新書2018.6)に於いても、その知見は変わらない。

“依拠されるべき核心は、解き放たれるべき本質は、人間という存在の核に充填されている、〈欲望の相乗性〉である。人によろこばれることが人のよろこびであるという、人間の欲望の構造である。”(6章高原の見晴らしを切り開くこと)

そして同じ章の中で、次のようなエピソードが紹介されている。

“最初にわたしが連想したのは、1970年代に若い人たちをひきつけていたユートピア的な共同体たちの一つの実験だった。この共同体では、労働が全然強制されない。仕事はやりたい人が好きな仕事をやればよく、もちろん生活は保障される。というものだった。そんなことで社会というものが成り立つものか、そんなまちがった甘い幻想はおれが行って粉砕してやる、という固い決意をもってこの共同体にのりこんだ人がいた。その人は釣りが好きだったので、毎朝ご飯を食べると、共同体の仕事をしている人たちの中をこれ見よがしに釣り竿をかついで、近くの川か池に通った。帰ると夕ごはんをおいしく食べて、ゆっくりねる。五七日目かに、だんだん遊んでいることが退屈になって、ついにニワトリの世話などをしはじめたという。もちろんがんばって、何十年もあそびつづけるということも考えることはできるが、そういう人は少ないと思う。仕事というのは、強制されたものでない、好きな仕事ならば、あそぶこと以上にさえも楽しいものである。
 この共同体それ自体は、別に問題があってあまりうまくいかなかったという話も聞いているのだけれども、仕事というものが、経済的にさえも強制されることがなくても、仕事をやりたいという動機づけだけで、社会は回ってゆくはずだという発想と、そのための果敢な試行自体は、さまざまなことを根本から考え直してみるきっかけとなった。”

多分Tさんのことだ。昼間から湯飲み茶碗に焼酎をなみなみつがれ「若いもんはもっとしっかりしろ。飲めっ」と差し出された懐かしい日々が蘇る。
ただここでの〝この共同体それ自体は、別に問題があってあまりうまくいかなかったという話も聞いている〟云々の箇所はあまりにも唐突な表現だ。〝高原の見晴らしを切り開く〟という根源的な問いから大きく逸れる〝にぎり飯談義〟(わが一体の家族考114)の部類だ。

ここでの〝問題〟とは、察するに以前マスコミが報じた「ヤマギシ会二百億円の申告漏れ」(1998.4.16)や「日弁連が学園に対し改善勧告」(1999.5.11)や「財産返還訴訟での最高裁判所判決」(2004.11.5)等のことを指すのだろうか。
それともこの間の文脈に沿って言えば、今自分が置かれている立場からの見方が邪魔して理想実現への出発点に立たなかった、またそこから踏み出さなかったところに帰因する〝問題〟なるものだろうか。
どちらにせよ、社会との関わり、自分自身との関わりで日々試され問われる他人事ではないテーマではある。

今求められているのは、自分らにとって未知で未然の〈性〉があらわれるまで、〝あらかじめ個をこえたものの力〟を内包している実態を〝透明に〟〝それ自体として〟浮かび上がらせることにつきるのではなかろうか。
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