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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

「と」に立つ実践哲叢(39)

〝人生踊り〟を踊る

先回は次のような一文で締めた。
“戦う前から〝のぼう様〟は、「北条家にも関白にもつかず、皆で今までと同じように暮らせないかなあ~」と呑気なことを言っては皆を唖然とさせていた。この次元ですでにボールはゴールネットを揺らしていたのだ!
 これが奇策と見えて実は理にかなった〝正攻法〟だった。その顕れが田楽踊りである。自分らの〝人生踊り〟とも重なってくる。”

そして今、自分らの〝人生踊り〟ってどんなこと? とあらためて問うてみる。たしか〝人生踊り〟の出所は『養鶏書』(山岸巳代蔵著)の一節からのものだ。

“養鶏も、農業も、本来の仕事の方も、凡て芝居であり、遊びであり、生きている間のなぐさみで、楽しい一つの踊りに過ぎないのです。”
“自分のしたい放題のことをして楽しみ、遊び踊って(私の日常は踊り)悔いなき生き方で、この途でならニッコリ笑って死ねそうです。” 
“金も名も求めず、各自の身に合う仕事で世界中に踊り、天地に愧じない連中には、至る処家在り、食有り、友、吾が子ありです。”

だんだんと心許なくなってきた。つい〝のぼう様〟の意表を突く田楽踊りに心が高ぶってか、その勢いで自分らの〝人生踊り〟に重なると口走ってしまった?
絵に描いた餅

だって『養鶏書』で描かれる〝人生踊り〟はあまりにも崇高な立振舞いではないのか。それに比べて普段の、やれ足腰が痛いの首筋が凝るのとぶつぶつとぼやきつつ時には惨めな気持に落ち込む今までの自分が頭を持ち上げてくる。だとしたら自分らの〝人生踊り〟って、ただ言ってみただけの絵に描いた餅でしかないのだろうか。
こんな自己問答をずっとくり返している。

思えば崇高な〝人生踊り〟って、我執まみれの自分には絶対ムリムリ。でも自分は実顕地、通称「金の要らない仲良い楽しい村」という舞台で、曲がりなりにも〝研鑽生活〟という踊り場で暮らしている!? そんな聖と俗のはざまにいつも戸惑ってきた。
嫌ならおさらばをしてはと自分に問えば、なぜか〝仲良し〟とか〝楽しい〟といった簡単な言葉に秘められている奥深さに、何かほのぼのとした温かいものに包まれる〝研鑚会〟の魅力に惹きつけられる自分もいた。

ある時ふと気がついた。〝何かほのぼのとした温かいもの〟に惹きつけられる自分って、ひょっとしたら自分? 我執のない自分の姿ではないのか! 同じ〝仲良し〟とか〝楽しい〟でも、〝本当〟と言いたくなる〝仲良し〟とか〝楽しい〟実態に触れている自分が浮かび上がってきたのだ。
崇高な〝人生踊り〟は絶対に出来ないかの如く思っていた。その出来るか出来ないの前に、どちらを本当に願っているのだろう?
心にパッと明るい灯が点った。崇高な〝人生踊り〟が特別人間のことでなく、まさに自分のこととして実感されてきた。
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