FC2ブログ

自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(139)

出会いは〈性〉であった?

この間の文脈に沿えば、かつてマルクスは「イェニーさん問題」から〝資本論〟の世界へと大きく逸れていくことで、たくさんの人に永く影響を及ぼすような盲信的な〝災い〟を残した。
先の見田宗介さんも〝高原の見晴らしを切り開く〟という本質的・根源的な問いから〝この共同体それ自体は、別に問題があってあまりうまくいかなかったという話も聞いている〟といった通俗的な〝にぎり飯談義〟へと大きく逸れていく。
自ら省みても一番肝心なところから気づかないまま脇道に逸れてしまうことはしょっちゅうなのだ。

それほど本質的・根源的な問いから出発して、ただ聴き・そのまま受け取り・逸らさないで踏み留まって〝あらかじめ個をこえたものの力〟(見田宗介)を内包している実態を〝透明に〟〝それ自体として〟浮かび上がらせることは未然で未知で未体験の出来事なのだ。
なにせ〝自分の一尺後ろにある宝〟はあまりに近すぎて可視化することも分離することもできないものらしい。
もう破れかぶれの気持で〝自分の一尺後ろにある宝〟とは、〝性を基盤とする恋愛・結婚観〟(わが一体の家族考87〈性〉の琴線に触れる)を指すのではないだろうか、とまで言い切ってみたのだった。
そこでそもそも自分自身にとって、山岸会(ヤマギシズム)との出会いは〈性〉であったのではなかろうか? といった問いから出発してみる。
そうかあ、あの時自分は〈性〉の琴線に触れたのだと今頃になって思い至る。
それはヤマギシ会に参画して直後の出来事で、数年後に手記としても書きとめていた光景だった。

“ぼくが衣類と書物をいっぱい詰め込んだ重いリュックを背負って国鉄関西線・新堂駅に降り立ったのは、たしか8月の暑い盛りであった。
関西線 新堂駅

そこから20分ほど歩けば、山岸会の一体生活体があるはずだった。これからの行方にどんな生活がまっているのか、それは未知であり不安でもあった。でも、すでにぼくは都会での生活に見切りをつけていた。
 翌日からぼくは養鶏の仕事の配置についた。今にして思えば、後にぼくの人生上の大きな転機に係わり、これからもぼくの生き方をたえず触発してやまないであろうYさん夫妻に出会ったのは、その日だった。一体生活体の中では格別珍しくもない、そのYさん夫妻について書いてみたい。
 その頃のYさんはまだ40代半ばであったが、すでに額はツルツルに禿げ上り、いつも健康そうな笑顔を絶やさず、外見は無類のお人好しの典型といえる人だった。奥さんもこまめに動き、世話好きで、田舎気質で、この人の担当するヒヨコ達は健康正常に育つ以外にありようがないとさえ思えた。この夫妻の言動から醸し出される雰囲気は、たんに鶏達に及ぼす影響にとどまらず職場の人間関係をもやわらかく包み込んだ。ほんとうの「仲良し」ってどんな状態かなどと考える必要はなく、Yさん夫妻のふだんの間柄を思い浮かべればそれで足りた。
 そうした他を思いやるYさん夫妻のさりげなく差し伸べられる心の手の恩恵を一番たくさん被ったのは実際ぼく自身ではなかったのか。 朝寝坊の得意なぼくは、時として朝一番の水やりやエサ見を怠った。そんな時は必ず奥さんが代ってやってくれていた。そして遅れてやってきたぼくの顔を見て恥しそうに、「フフフッ」と微笑むだけだ。ちっとも批難がましいことは言ってくれない。これはかなりぼくの胸にひびいたことの一つだ。休憩時のおやつ作りの時もそうだ。どうしてあんなに素早く用意できるのか、ぼくたち若い飼育係にとっては毎日驚異のマトであった。自分が作って自分で食べるよりも、みんなが「おいしい、おいしい」と言って食べるのを眺めているさまが、その場での奥さんにとっては最も似つかわしかった。山岸会とはアナキズムの流れを汲むものではないか、などと当時つまらぬことばかり考え、そうした複合観念に悩まされていたぼくの心に、Yさん夫妻のそうした笑顔や立居振舞はものすごく新鮮なものとして飛び込んできた。
 その後さまざまな時の経過を経て、Yさん夫妻の口から問わず語りに聞いたその来歴はざっと次のようになるだろうか。
 山々を水田が縫い込む山間の小さな部落で育ったYさん夫妻は、我が家のためにと一生懸命働いていた。そうしてもっと新しい農業のやり方はないものかと、近くに本部があった農業団体「愛善みずほ会」の熱心な会員でもあった。その頃すごく儲かって、それでいて手間のかからない養鶏の会があることを知った。早速庭先に200羽ほどの鶏が飼える鶏舎を建ててみた。それが山岸会との出会いのはじまりだ。ところが会発行の新聞でほんとうに鶏を飼うにはまず腹の立たない人間になるのが先決で、そうなるための講習会が毎月開催されているのを知る。「これはただ事じゃない」。
 その講習会に参加してからというものYさんの言動は一変してしまった。家の仕事に手が着かず、一人でも同志をつくろうと近所・友人・親戚、人を見るごとに講習会を勧めて歩いた。自分だけどれほど儲かって幸せになったと感じても、みんなが幸福にならない限り自分のほんとうの幸せはないと思ったからだ。仲間も次々と増える。ところがみんな自分の家の仕事はうちすてて他村へ拡大に、本部の研讃会にと出かけてばかりいる始末。どうしたらいいものか? そこでみんなで考えついたのは、お互いの家の仕事(田植・除草・稲刈り・脱穀に至るまで)を部落全体の共同作業としてやることだった。早速実施。 しかし、しばらくすると何か物足りない気持が湧いてきた。「ほんとうの一体って何だろう? 作業がいくら合理化されてもそれだけではたんに高い処へ土もちをするようなもんや」
 そうこうしている矢先、山岸会の方で「一体経営専門研鑽会」が開かれる。昭和33年の春頃だ。全国から集まった同志はほとんどみな自分の部落で共同作業をやってみて、なおかつ何か物足りないものを感じていた人達ばかりであった。そこで「百万羽構想」が山岸さんの録音テープで発表された。ストライキも社長もない、そんな養鶏の会社をみんなの財産を投げ出してつくろうといった趣旨の提案である。さあ、その場は一時騒然とした。自分はどうする? あんたはどう考える? 「そうやなあ、家庭はむろん支部でも何かがつまって出口を塞ぎ止めている感じがしてたし、ここらでひとつ踏み切ろう。同じやるからには大きくやろう、自分を最大に活かしてみよう」 Yさんはその場で参画の意志を表明した。
 それからが大変だ。財産整理に取りかかる。「ほんとにビックリしたわ。お父さんはあれ以来三重の四日市の創立事務所に出たきりで、時折お金が必要だから取りにきたと言うて帰ってくるだけ。ちょうど5月の田植の忙しい時期で、お母さんと私と近所の人にも手伝ってもらって泥まみれで働いているのに、お父さんからは毎日楽しみの連続ですと、人をバカにしたような便りが届いたり……」と奥さんは述懐するのだ。息子が出ていくのを止めてくれ、と見る人毎に頼み続けていたYさんの母親も終いには田圃か道中だかに倒れてしまう。もうあれだけ信じきってしもたらなんぼ止めてもあかん、部落の人達が話している。「でもなんやなあ、家財道具一切を処分するから帰れという電報が届いて四日市から我が村のバス停に降りたとたん、 "Y宅の家財道具一切を処分する 何時より せり市に出す"と書いた立札を見たときは、さすが我ながらやったなあと思ったわ」親戚中からは泣きつかれる。でも何も言うことなかったから黙り通した。「でも、やってみれば何でもないことやな」。
 こうして四日市に集結した大勢の仲間達と共に、理想社会実現の第一歩を踏み出す。それからのYさん夫妻の足跡を辿れば、現在の春日山への移転、入雛準備、山岸会事件、一年近くの行商、北海道での分場作り、各地の実顕地造成……と、白分がどうするかではなく、むしろどうしたらみんなのためになるかだけを考え行動していく〈旅〉が続く。「もう無我夢中でやってきたわ」。 ちょうどぼくが始めてYさん夫婦に出合ったのは、彼等が回り巡って久し振りに春日山に生活の場を置いてまもなくのことだったのだ。
 それからしばらくして、ぼくはYさん夫妻の娘さんと結婚することになった。ある日その旨を報告しに部屋へ行くと奥さんが居て少し顔を赤らめて「そうけえ」と一言いったきりだった。それ以降ぼくたち夫妻は何かに促されるように毎晩Yさん夫妻の部屋を訪ねた。別段かしこまった話をするでもなく、ただとりとめもなくテレビを見て帰ってくるだけの日が多かった。そんな中でこの夫婦の間柄から発散してくるものが、生活のすみずみにまで及んでいるのを知って、かつて思ってもみなかった無形の大きさにはじめて触れた思いであった。
 それからまたしばらくして奥さんが病気になった。ガンであった。Yさんは居を東京に移して毎日看護に通った。しかしまもなくYさんに見守られて奥さんは亡くなった。その時ぼくはある研鑽会に出席していた。そこへ人事係から電話が入ってぼくの家族が動揺するかもしれないから早く部屋に帰るようにと言ってきた。ところが意外と妻は冷静で、それよりそのことをどうおばあちゃんに伝えたらいいかと心配していた。でも、それはまた明日考えようと、その夜はひとまず親子四人一つの蒲団にみんな小さくなって寝た。
 正直なところYさんの奥さんの死はあっけらかんとして、実はちっとも悲しくはなかった。短い生涯ではあったけれど、その間誰が見ても頷く最も相合う夫婦として生き、かつ山岸会の基礎造りの仕事に精魂込めることができた事実からは、この世での至上の価値を生き切ったさわやかさが残った。そうぼくは見た。もっともその際にYさんの内面で起きたさまざまなドラマについては知るよしもないのだが……。
 こうしたYさん夫妻の間柄と生き方をそのまま、ぼくたち夫妻の間柄に、その生き方に重ねて行きたい、引き継いで行きたい願いが強くいま蘇ってくるのだ。
 以上がぼく白身の現在進行中の"ある愛の詩"の一節だ。(『ある愛の詩』1977.1) ”

今にして思えば、いい目にあったのだなあ、じつにいい思いをしたのだなあと、つくづく実感するのだけれども、当時はそれ程価値ある世界との出会いだとは想像だにしなかった。偶々Yさんの奥さんの死をきっかけに一つの懐かしい思い出として沸きあがった気持をそのまま言葉にしてみたのだった。
関連記事
スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する