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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

25 自分がよくなるためからの出発

「私は一九歳の時、或る壁にぶつかり、苦悩の内に一生かけての仕事を始めたのです。そして人生の理想について探究し、真理は一つであり、〝理想は方法によって実現し得る〟という信念を固め、只今ではその方法を『月界への通路』と題しまして記述し続けております」(山岸巳代蔵)

かつて「理念」はいつも「現実」の前で虚しく裏切られた。理想を描き、その理想実現に生きがいを感じて明け暮れる高揚する日夜が、一転互いを傷つけ合う修羅葛藤の場に変わる。

そもそも理念とは、現実とは何か?
理念と現実との乖離はどうしたら埋められるのだろうか?

そんな時ふと、自分が「ヤマギシズム理念」そのものになったらよい、という思いがわいた。しかし、瞬間的にそんなバカな、とすぐに取り消した。だって自分は我執の固まりなのだ。でもそれだったら、お先真っ暗だなぁとなかばあきらめかけていた。

そういえば、山岸会の会旨は「われ、ひとと共に繁栄せん」であり、私の社会倫理は「自己より発し、自己に返る」として、「われ」とは「自己」とは、とずいぶん研鑽を重ねたことがある。ここでの「自己」とはどんな自分なのだろう?

「全研(※昭和三十三年頃)の場で『あんた方ここに何しに来たんですか』と問われた時、全人幸福運動、戦争のない社会、不幸な人が一人もない、愛児に楽園を、理想社会を創りに、と応える人が多かった。その時『私が幸せになりたいからとちがいますか。その幸せがひいては全人の幸福につながる』といわれた」(川口和子談)

「自己」の歓びや快楽などを追求することは「自己中心主義」に受けとられるという遠慮や自己規制に縛られ観念が、根こそぎにされたような衝撃をうけた。「ああ、そうか」と腹に落ちてくるものがあった。

結局自分がよくなるためからすべて出発している。屈辱・忍従・犠牲・奉仕・感謝など一切無い。自己より発して自己に返るだけ。自己の楽しむ場を広めていくためで、決して人のためでないということ。そういう「自己」がやっていく副産物として理想社会ができていくというような……。

それは事実その中で生きているもう一人の自分の中の「自分」を知らされたきっかけだった。
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特講を受けて1年後の研鑽学校。「この運動、誰の為ですか」という問いかけに、自分は先ず障害のある息子の為と浮かんだ。ら、世話係だった井関さんが、「他人の為になんてやってられねえ」と言った。
その時、全くだと思ったのです。
特講に出かけたのも、今の状況から何とか一時避難しないと、私、危ない!と感じたからだったな。
まことに申し訳ないけど、両親の特講贈りも、正直私が仕合わせになれるのはこれだ!と思ったから。
参画も...
「こころの手を結ぶ それが実顕地の充実」のテーマ研、幸せになりたいと伸ばしている私の手を私がしっかりと握り返してやる。それがモト。
それが大欲かな、と思うのです。
ちょっと、次元が低いのかなと省みますが。

sachiko | URL | 2014-12-17(Wed)12:18 [編集]