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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(142)

〝そこ〟に触れた時

例えば「ある愛の詩」の世界での〝そこ〟に触れた時、一瞬にして「叱られるかなぁ」といった憂鬱な気分が氷解し、何かほのぼのとした温かいものに包まれている〝自分〟を見たのだ。ただただうっとりと癒やされている自分がいた。
とても不思議な奇跡のような体験だった。

“無いものが、見えないものが見える人になるために、〝ふとした機縁から気づい〟た世界を通り過ぎないために、そこに立ち止まり、踏み留まって、行きつ戻りつを何度も何度もくり返し膨らませていくのだ。
何とも言葉で表せない感情でいっぱいになり胸が熱くなる〝この感じ〟って、いったい何なのだろうかと。
しかも〝この感じ〟に抱擁(つつ)まれて自足している自分とはどんな自分なんだろうか? それにしても彷彿と浮かぶあの恥ずかしそうな笑顔から一瞬のうちに蘇り、こみ上げてくる心の琴線に触れるものの正体は、いったい何なんだろうか? 
そうやって四六時中自分自身の実感に思いをめぐらせていると、ふと〝琴線〟の鉱脈を探り当てたような瞬間があった。底が抜けたような感触があった。実感をともなった体験の場に立ちあがった。”(わが一体の家族考116)

“心の琴線に触れるとは、ひょっとしたら〈性〉の琴線に触れるということだろうか!?”(わが一体の家族考87)

そうか、ここが自分で自分を尊重できて自分らしさに出会える場所だったのだ。何遍もくり返しくり返しひとりで立ち還っては勇気づけられた。自分の足でようやく一歩踏み出せたような嬉しさもあった。
漫画『ドラえもん』に登場するひみつ道具〝どこでもドア〟のように、
〝どこでもドア〟

何やる場合にでも、どんな場合にでも、あの時の心充たされた〝自分〟がいつもぴったり寄り添っていた。
はじまりの主観的な何か不思議な感情にすぎなかったものが、何時しか宇宙自然界の底に熱く息づくものにまで膨らんでイメージされてくるのだった。
以前研鑽した「実顕地用養鶏法研鑽会資料」の一節が浮かんでくる。

“その人の言う通りやろうとすることはその人になることで、その人の心になることで、方法のみを真似するわけではない。
一体になろうとするもので、一体とは無我執である。
その通りやれるかやれないかはわからないけれど、信じないで言う人の気持ちになってやってみようとするもので、そこに考える人とやる人の一体の成果が即ち本養鶏法が顕現される。
間違いなく完璧だからその成果を期待してやるものでなく、趣旨やあり方や仕組みに賛成して養鶏する目的や経営安定度の可能性にかけるもので、間違いなからんとして間違い多い過渡期も責め合いなく一体で励み向上さしていくものである。
それはヤマギシズム社会のあり方であり、そこに住む人の心情でもある”

じゃあ、その人の心って何?、自分ではない他人の心になぜなれるのか? しかも自分は大の人見知りで人が怖かった。そんな自分でもどうしたらなれるのだろうかと、いちばん思い悩んできた箇所だ。
それが一転して、そうか、そうだったんだ! 〝そこ〟に触れている〝自分〟が〝その人の心〟なんだ!?
ああそういうことか、とようやく肩の荷が下りたような深い安堵感に包まれるのだった。
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どこでもドア

研鑽学校Ⅲで、
あったかい陽の当たる縁側で父の背中を眺めている、少女の私。いつまでも浸っていたい原風景。
が、フト、親の重力に反抗していた頃が浮かんでくる。

研鑽会で出してみると、「それは原風景には無いんじゃない?」と言う意見が出た。う~ん、確かに違う世界の様に。
すかさず、「どこでもドアの敷居に躓いて、コケているみたい」といってくれた人があった。納得!
それ以来、何か心落ち着かなくなる場面で「どこでもドア」が浮かんでくる。

麻野幸子 | URL | 2018-11-13(Tue)08:18 [編集]