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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(146)

妥協がなかった頑是無い子どもの頃

「愛情徹底研鑚会」では、思いが言葉や何かで通じない時の立っても居てもいられん状態の「何とも言えんもどかしいもの」から来る〝発作状態〟を、〝だがあの時は、こうやったんや〟とていねいに辿っていく。
研鑚会で井上頼子が、こんなことは自分と福里柔和子との複数の愛情問題になるまでもあったのかと尋ねると、山岸巳代蔵は次のように語る。

“もっと子どもの時にね、自分のね、自分の正しいと思っていることがね、通じないとね、もう、居てもいられんもんやね。子どもの時からやっぱり何かちょっとあるね。性格かもと思い、困ったで。”

と親から受けたものとも言えんやろな、何でやろと、子どもの頃の妥協のなかった自身の姿と重ねる。それは自分の正しいと思っていることを通そうとする自我の現れというよりは、自分に対していい加減に済ましておけない、通じさせない自分がもどかしく耐えられないのだ。自分が自分に対して〝もどかしい〟のだ。
ことわざに〝泣く子と地頭には勝てぬ〟とあるが、頑是無い(幼くてまだ物事の是非・善悪がわからない)子ども、聞き分けのない子どもの姿に、簡単にごまかさない成長段階の一つとして見ているのだろうか。
この研鑚会から一ヶ月余りすぎた11月29日の見性寺での愛情研鑚会の記録には、自分らのこうした結婚形態へ向けての煉獄の試練をおたまじゃくしが蛙に変態する〝成長への脱皮〟の例えで振り返る。
おたまじゃくしからカエル

そして頑是無い、聞き分けのない振舞いを、

“手足がない時にはやはり泳ぐ水が要った、その水だったと言ってもええと思う。ウソのものでないと思う。頑是無い幼少の頃には、そういうものも必要だつたと思う。”

とも見なしている。
たしかにそういう心境、環境が生じない場合には、そんな発作は起こらない。いや、あの時にこういう環境であり、心境であれば、やらんで済んだであろうことは分かる。だがあの時は、こうやったんや、と自分を別の立場で批判していく研鑽が眠たい顔している参加者もいる中で続いていく。

“通じないものに対してやね、妥協ででもその場を糊塗しておこうと、糊塗しておけば、それでいいわけや、自分にな、ね。”
“修養が足らんのかいな、性格かなあ、こういうものが人間の本質であるのか、どっちでもええわ”
“まあ、何回でも出る現状ですわ。まだほんで、出ないということは、よう保証しません。”
“その焦点をそらして、ね、「もういい」と、発作状態になる前にそらしていくと、まあそういうようなこと穏やかに見えてるわけやね。そやけど、実はその、発作状態にならないから、ね、発作が起らないから、それでその、もう発作が起らない人間になったかと言うと、そうやないの。”
“発作する状態が起って、それをその、いわゆる妥協でよ、そらしておくというのが、これは一応自分にも、ね、まあ何とか膏薬張りか、ごまかしかしらんけど、それで収まったもんではないわね。”

というように、〝発作状態〟の意義づけ、勿体つけているのと違うと断りながら、このことは複数の愛情問題にかぎらず、〝真の人間性〟につながるテーマであると山岸巳代蔵は言いたげな様子なのだ。

“本当にね、もう、ちょっとでもウソ偽りはない、もう真理、本当の純の極致やね、そういう時の、なんにもない……、誠意の誠意の通じない時やね、それでこれはね、誠意の通じないということは、通じない……、だいたい通じないのが当然やと思う場合あったし、通じるはずのものが通じない時やね、こういう時にもう、もうもう、こんなこんな妥協や偽りで生きておられない、何も出来ない状態やね、純粋の純っていうか、本当の純粋っていうか、そういう状態……”
“妥協できないと思います。純粋に生きようと、純粋に生きようということは、もう、それはもう妥協の世界に生きておらないということ。おらない、おられないということになる。”

とも言うのだ。何となくウソ、偽りや瞞着(ごまかすこと。だますこと。)のない世界に生きる肌触りのようなものが感じられてくる。
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