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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(148)

無神論者が神を拝む?

さきの愛情研鑚会で、柔和子から〝先生に対する愛情が消えた〟と言われてすっかり落ち込んでしまった山岸巳代蔵は、
“この危機を救ってくれ。ウソでもいい、同情でもいい、何でもいい。”
と哀願するのだった。
それが関係者の必死の働きかけで、12月9日に引き続き研鑚会を持つことができた。その間の山岸巳代蔵の心の動きを研鑚会記録からたどってみることにする。

“そのね、まあ、――「愛情がもう、フッと消えた」って、「なくなった」って言われたらね、それまではたくさんに思っていたんよ。たくさんに思うてましたわ、柔和子を。もう絶対大丈夫と思うてたんやね。「そんなもん、二人の仲崩れるか」と思ってね、思って安心して、たくさんにしてたんやけどね。「たくさんに」っていう言葉、粗末に扱うかね、そんな有り難さ知らなんだや。さあ、これが、「なくなった」と言われたら、もう、そりゃ、立っても居てもいられんのよ、もう。それはその間際まで知らなんだんやで。ええ調子になって、ええ気になってたんや、「こりゃええなあ」と思ってたんや。
側にいると、それほど有り難さが分からんと。
「愛情がフッと消えた」って言うの。そーりゃ、そうしたらもうまっ暗よ。
死にたい衝動やったんや。もうこの汽車の窓から飛び出したろかと思ったんや。”

そんな〝もう生きていたいことない〟気持ちにかられていた時、周りから〝脈がまだちょっとある〟(実際はウソ話―引用者注)と聞かされたけで〝ホンマかいな〟と嬉しくなる山岸巳代蔵がいた。〝春日山〟の裏手に位置する春日神社へ五円お賽銭あげて一生懸命拝んだ。そんな藁をも掴む気持ちだった。
春日神社

“本当にこんなに変わるもんやね、人の心って、ね。悲惨の思いで和雄さん頼んで、嘆願して連れてきてもろうて、それでそこで、もう絶望になって、それで今度は嬉しいなって、そしてあの、あれどこやら、春日へ行って、ね、それで夕べ遅う来てから、ね、あの、ようやくにして頼子ここへ来てくれるようになったんやね。それでここで喜んだけども、そりゃ喜んだり、もう気が抜けたりね、こんなに変わるもんやね、人の心っていうのはこんなもんやね。で、愛情があるの、ないのっていうようなことはね、「あったなあ」と、「あの時こうだったなあ」ということは言えるけど、これから先のことは分からへん。”

と振りかえる。研鑚会でも次のようなやりとりが興味深い。

戎井 僕は今、愛情がね、「本当の愛情がぶっつり切れた」ということに対して、「いや、切れたと思わない」という観方と、二つに別れておるわけですな。「そりゃ、本人が一番よく分かるんじゃないか」というような発言したんですけども、よく考えてみると、本人が、「ない」と、「もうぶっつりと切れた」と思い込んでいる場合もなきにしもあらずだから、問題がこの、少し僕の考え方が単純すぎるかも分からんですけども、福里柔和さんに、愛情が本当にないのか、ないと思い込んでおるのか、全然……、そこを検べるのが、一番の眼目じゃないですか。
山岸 それをね、検べてもね、検べられないと僕は思うのよ。検べられないと思うの。だいたいね、この絶対愛というものは、もうこれは不動のものやと思うがね、夫婦愛情というものはね、起ったり消えたりするものやと思う。(中略)
で、本人が、「ああ、今、なんか知らんが夫婦愛情がない」と、これは思っているのよ、そやけど自分で検べてもそれは分からん。後から、「あっ、あの時はないと思っておったが、やっぱりなんか残っていたんだな」とか、「あの時は本当に消えたけど、また起ったんだな」とか、こういうことは後になって、まあそういう判断するだけで、それも本当のことをキャッチ出来るかどうか、僕は、これさえも分からんと思うの。「あの時消えてしまったんだと思っておるのが、消えておらなかったんだ」ということも、言えるか言えないか分からん。
まあ、後になって振り返ってみて、ずうっと終生続いたら、これがまあ終生の夫婦愛情で、そして一時的のものであれば、一時的の夫婦愛情と。それから濃淡もあると思う。濃いものもあれば薄いものもある、いろいろやと思うね。”

そしてそこから柔和子と結婚に踏み切った時の心境を振り返る。

“何でもない時よ。ただもう、「好きや、好きや」で、まさか結婚するとは思ってませんわね、その当時。ところがね、「川瀬さん(山岸会員、警察官―引用者注)によろめこうか」っていうような言葉が出るには、その元があるのよ、ね、何かあったんや。そんなこと聞いた時にね、川瀬さんに対しての嫉妬ではなかった、「川瀬さん、むしろ、あ、そらいいことやな」って言うたんや、。「それもよかろう」と、こう言ったんです、。本当にそう思っていたけどね、非常にさびしいもの感じたんかね、もう自分の気持がイライラして慌て出すのやね、騒ぎ立つのやね。”

と、もうたまらなく気分が落ち着かない失恋状態になって始めて無意識のうちに柔和子を愛していることを発見したという。ところが、

“そうするとね、楽しいはずでありながら、柔和子の所にいると、いつもいつもいつもいるから、それほども楽しさが、もう常識になって感じられないと、有り難さが分からんと、ね。そこへこっちの方へその、そんな状態の時に行けないという、その、堪らないものね。それで、「なんとかして頼子のとこへ行きたいなあ」って、また会いたい会いたい、とっても会いたい時があるのよ。”

といった発言から、しだいに研鑽は柔和子のところにいつもいると有り難みが分からなくなるし、愛情一筋で生きている、それだけを頼りに生きている頼子がさびしいがゆえにか〝もう私は要らないものだ〟とする危ない場面を実演するし、一方自分には柔和子に対してなんか縛られるような気がして堪らないといったアンビバレンツな心境を洗いざらいぶちまける。
いったいここで山岸巳代蔵は何を言いたいのだろうか。遊冶郎(放蕩者)の身勝手な言い分にすぎないのだろうか。
11月29日の愛情研では、宇宙自然界の保ち合いの理に合う人間同士の結婚形態について言及している。そこでは〝間違いない性生活〟のあらわれを、

“それは自由でいいと思う。また自由以外にないと思う。自由に任した、任したものでいいと思う。任すより他ないと思う。”

として本当の自由の世界を、一体の生き方を、愛情世界の〝自由〟に重ねているのだ。
ムチャクチャ飛躍している!?
ともあれ山岸巳代蔵にとって柔和子の、頼子の存在とは何なのか、愛情の複数形態とは……、と研鑽は佳境にさしかかってくる。
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