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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(149)

空気とタイヤと自転車?

山岸巳代蔵は自分にとって柔和子の、頼子の存在を11月29日の愛情研では次のように語っている。
空気とタイヤと自転車

山岸 ……私はね、ようなんかに例えるけど、例えって、まあそんなに的確に言えない、またとる人によって違うけどね、私はまあ、自転車で言うたらタイヤみたいものやて、ゴムのね。ね、タイヤチューブっていうかね、完全か不完全か、まあそりゃ知らんけど、まあそんなもの。頼子はまあ空気みたいなもんや、ね。それでタイヤっていうものは使えるわけやね。空気の抜けたタイヤっていうものは、そりゃあ、おおよそもう、自転車に取り付けたところで荷厄介になる。それを無理に押したら、バラバラになってタイヤも破れてしまう、こういうこと。私はそういう、まあ、考え方やね、何かしらん、ここが言えるような気がするから、そういうタイヤがやね、柔和子という車体なりね、ハンドルのついたものにやね、組み込んでこそ、こういう仕事が出来る”

そしてまた12月7日の愛情研では柔和子に次のように語りかける。

山岸 俺を生かした方がいいだろう。お前と頼子の放射能によって、この、まさに消えんとする命を、生気を、取り戻すことと思う。
(略)
山岸 全人幸福への分かれ道だ。
(略)
山岸 うん。ウソでもええのよ。ウソでもええのよ。俺に放射能をくれ。生きる力をくれ。”

続けて12月9日の愛情研では、山岸巳代蔵にとって柔和子の、頼子の存在を〝数字〟の例えであらわす発言が見られる。

“柔和子はこれだけで五なら五のものがある”
“それで、三は、三は柔和子と同じもので、二は柔和子にないものやね。”
“そういうものによって五になって、伯仲した力とも言える。これの(パンと手をたたく)きつい結び付きによってね、この愛情実践の世界に及ぶですよ”
“さっき言ったね、「これも五つのうちの、まあ、柔和子が五つ」と、それで、「頼子と僕で五つ」と、こういうことは。「三は柔和子と同じような、こう、能力、そのかわりに柔和子にない二つの能力が僕にはある」と、”
“この僕には五、寄せての五がある、柔和子にないもの二寄せて頼子と同じもの三が、あの、柔和子に……ややこしいね、今の。あの柔和子に三ね、柔和子と同じ三と、柔和子にない二寄せて五として、ここに頼子が入ることによって全部これが生きるということね、ね。ここや、ここんとこね。頼子が二でないの、頼子が二でないわけよ、頼子は全部に生きるわけよ。この三だけも、この三の柔和子と同じ三もやね、頼子が入らなかったらやね、三も生かされない。むろんこの二もやね、働かないと、こういうものを僕は感じるの。そういうものを感じる。”

こうした数字に例えて分かりやすく言おうとするのだけれど、聞いている方はますますややこしくなってくる? 前後の山岸巳代蔵の発言を拾いながら自分なりに整理してみる。
要するに柔和子は、〝五〟ともいえるこの間の〝百万羽〟構想を実現していく力を備えている女性。一方頼子は、ただ愛一筋、愛だけでもう生きているような女性。そうした異いが次のような発言からもうかがえる

“頼子と二人っきりだった当時を思うと、省みるとね、頼子によってね、この生きる力やね、生かされていたと思うの。やっぱり米とか空気とか水とかいろいろのものでこう、人間生かされているわね。周囲の愛情とかこういうもので生かされておるけどね、それはね、頼子によってね、生かされていると。”
“あの、どんな場合にでもよ、僕が頼子に愛しておられると思っておるなればよ、そして愛しているという頼子を感じておる場合にやね、そういう場合にはこの、非常にこの、生きる喜びっていうかね、なんか知らんが、まあ生きる力もらっている。”
“もう頼子を知ってからっていうものはね、もう他には要らないの。ニコニコ、話がふわーっと明るい、こういう感じやね。そうすると、生き生きした仕事が出来るの。”
“私の考える働きを持つところへやね、ちょうどエンジンがあってやね、そこへこの、あれが送られるというかね、ガソリンが送られると、まあこう考えてもええと思うね、”
“頼子と一緒にいるっていうことは、自分が生かされるのやと、頼子と僕と結び付いて、そういうことになるのやと、こう思うね。これは、こんなのこじつけやないと思います。何回考えても、そういうふうに思われます。”
“私は頼子によってよ、そういう若い働き(19,20、21、22、23、24、25のその時分の考え―引用者注)があるので、その働きを生かすものが柔和子やったと、ね、実、具現化していくものね、実現していくものは柔和子やと思う。”
“柔和子一人では仕事にならないものがね。”
“頼子と僕と二人寄ってよ、ね、の力と、柔和子の一人の力とね、同じやと言えると思うの。頼子を取った僕はもう全然ダメやと。ね、頼子と僕とね、こう結び付いたものやね、それがもう今度はまた柔和子と結び付くことによってやけど、これ、こうやと思うわ。”

うーん、〝ここや、ここんとこね〟とか〝これ、こうやと思うわ〟と納得できる〝ここ〟とか〝これ〟がピンと来ない。しかも二とか三とか五という数字で例えられるとますますこんがらかってくる。やはりたんなる遊冶郎(放蕩者)のその場しのぎの屁理屈にすぎないのだろうか。
否むしろここを避けてはヤマギシズム恋愛・結婚観が立ち現れてこないのではないかという気がしてならないのだ。
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