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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

『それからの納棺夫日記』(青木新門著)を読む

文庫本の『納棺夫日記』を読んだのは15年ぐらい前だ。なぜこの書を手にしたのか忘れてしまったが、納棺の仕事で行った先が元恋人の家で、意を決して中に入り作業に熱中していたらいつの間にか横に座って額の汗を拭いてくれる彼女がいた! その時筆者の眼に映ったものが筆者の行動を一変させる。翌日から服装を整え、礼儀礼節にも心がけ、自信を持って堂々と納棺をするようになった。そんな一挿話が以来自分の心になぜか鮮やかに焼き付いている。

今度の新しい著書でも「恋人の瞳」という一節で、それまで周囲から白い目で見られていた自分にとって丸ごと認めてくれたような恋人の瞳は救いだったと、その嬉しさの源泉に再度触れられていた。

他にも「親族の恥」と罵られ憎しみだけがあった叔父さんが亡くなる時に柔和な顔で「ありがとう」といったこと。癌の転移を告知された井村医師のみんな耀いて見えたという不思議な光景について。自身の蛆が光って見えた体験等々の真意がくり返しくり返し尋ねられていく。この間二千回を超える講演や思索は、青木さんが見出された真理の、再検討のために、必至の試みでもあるのだろう。

そういえば自分らの二週間の合宿研鑽会で「私の原風景」を発表し合う機会があるが、原風景なるものの真意の一端を亡くなる数日前まで綴られたYさんの日記を通して知らされたことがある。その日記の最後の頁は「ありがとう」の言葉に続けて「塩のかおりや しおの風がきもちいい」で筆が置かれていた。

あっ、これって彼女の原風景だ! その一年ほど前に研鑽会で共に聞いた瀬戸内のミカンの花咲く小さな島で育った彼女の原風景が自分らの中にも甦ってきたのだった。

ふと「死んでからの極楽よりも、死の瞬間を、一生を通じての最大の極楽境にします」(山岸巳代蔵)ってこんな感じなのかなぁと、腑に落ちるものがあった。

青木さんはみずからの死者の柔和な顔に接しつづける体験を通して、現代の生と死を分けて考え、生にのみ価値を置いて死を忌み嫌う観方やそこからの社会に異を唱える。そして死の実相は生と死が交差する生死一如(しょうじいちにょ)の瞬間にしかその真実は顕れないのではと確信される。

そうした体験を踏まえた『納棺夫日記』が、映画「おくりびと」誕生のきっかけになった。しかし青木さんはきっぱりと、原作者であることを辞退される。映画は「石文」という寓話で終わり、そこには近代ヨーロッパ思想の人間愛しか描かれてないと否定される。いのちのバトンタッチにはならないのだという。

じつは先の二週間の合宿研鑽会では、六年前から毎回映画「おくりびと」を研鑚資料として活用している。

映画は脚本・小山薫堂さんの自作の小説「フィルム」での、母と僕を捨てた「あの人」の死を知り、偶然(=必然)が僕を「あの人」の過ごした地にみちびき、そこで「あの人」が「お父さん」に変わる物語をベースに展開する。青木さんはその場面を、石文を通して父も自分のことを思ってくれていたのだという親子の情愛のような次元で終わっていると、死の実相に向き合ってこだわり抜かれる。

たしかにどんな場面を見ても何やる場合にでも、見る眼が狂っていては、結局誤解、曲解、逆解に終ることは明らかであろう。

「ヤマギシズム実践哲学」では映画の一場面からでも、僕がお父さんになることでお父さんの心になることでそんな一体になろうとするものから、汲めども尽きぬ源泉をくみとる恩恵に浴している。一体とは無我執であるのだ。そこには正しく見られる心が出来た「見る眼」にさえ入れ換えれば、青木さんの真に意図されるものがそのまま映し出されてくるように思えて仕方ないのだ。

私たちは本来「繋がりを知る精神」、つまり「と」という場所に立って見られる世界を生きている。「生と死」も、生の延長線上に死があるように思い込まれているが、自分自身が「と」という繋がりそのものになることで、それまでの生に価値を置く思い込みの姿が手に取るように照らし出されてきて、全てが解けていく安心を得られるのではなかろうか。

また青木さんは自身のホームページに、ジョー・オダネルの「焼き場に立つ少年」と題した写真を掲載され、そこに「私が満州で終戦を迎えたのは八歳であった。母とはぐれ、死んだ妹の亡骸を難民収容所の仮の火葬場に置いてきた自分の体験と重なり、涙が止めどなく流れた」と添え書きされている。

自分にも心に焼き付いた写真がある。ずっと以前、新聞の日曜版だったかで見た段抜きの大きなカラー写真だ。東京・上野アメ横の雑踏の中で子供を抱いた夫を妻が寄り添うように見上げている家族の光景だ。なにかしら心の琴線に触れるものを押さえられない。なんでもないごくありふれたその光景を「見る眼」で見られるならば、誰の心にも繋がる真実の人生を見届けることを意味するはずなのだから。

「薔薇が咲き 日が差し それが見えてゐる そんなことさへ ただごとなのか」(明石海人) 
「よくみれば薺(なずな)花さく垣根かな」(松尾芭蕉)
「凍る池 藻は青鯉の泳ぎ居り」(鬼面子)

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