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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(154)

私心と全人幸福を願う心

また先の愛情研での柔和子の発言にもあったように当時1958年頃山岸巳代蔵は大村公才(キミオ)と自称していた。愛情研鑚会の記録として残っている1958年10月21日の研鑚会の初め頃に次のように語る。
奥村土牛 「鳴門」

“私は大村キミオっていう名をつけた、あれはね、ねえ、「全人に適当に使われたらいいんだ」っていう、そこから出た、あの夫(オット)っていう字を書いたんですわ。夫(オ)は、それではやはり一般を刺激するから、才(サイ)という字を書いてますけどね、夫(オット)という字、大村公夫って。一旦あのねえ、瀬戸内海でねえ、ねえ、私はもう、ワタシは捨てたんですわ、ね。私を必要としやね、ねえ、相合う人あるなれば自由に使ったらいいじゃないかって、大村公才(キミオ)。そういう私の観念を象徴する意味で大村公才とつけたんです。大村は世界っていう意味ですわ。ねえ、世界っていうことは、今の世界じゃない、永久の世界ですがね。世界の中で、ねえ、それで公才とつけたのはね、私のまあ才能って、そんなおこがましいもんじゃございませんよ、ねえ、能力そのものをやね、世界中の人のために役立つものがあるなればですよ、はっ、使われたらいいんだって、この気持なんですわ。で、いずれもこれは通じる「オ」なんですわ。”

この、私心の〝ワタシ〟にはもう、なんらこの世に未練がないというのだ。生きていたくなかった。即座にこの場ででも消えてなくなりたかった。
そう言えば1957年9月、和歌山の高野山での山岸会全国大会で西辻誠二さんが次のようなエピソードを披露していた。

“こんな名刺を持って来て、小さい小さい字で端の方に〝山岸〟と書いてある。外に何も書いてない。〝なんで所を書いてはらへんのや〟、〝いや世界……日本地区くらいかナ〟と言うてはるんですナ。それから〝あの堤防も直しましょうね、あの堤防の三倍もあるのを〟ちゅうようなことを言って、〝モデル農村をこしらえましょうね〟と言われる。わしも〝ハアーン〟となって聞いていたんです」(笑声)”

あえて平たく言い直せば、ここで山岸巳代蔵は〝二つの山岸〟を表明しているのではないだろうか。一つは瀬戸内海に捨てた〝私心のワタシ〟であり、もう一つは〝私が真理だと思うもの〟というか〝全人幸福に役立つ私〟である。もう一刻も早く死にたい私心と全人幸福を願う心との二つがうず潮のように渦を巻いていたのだ、と。
このうず潮のイメージこそ、この間の文脈での〝二つの幸福〟〝何でも二つある〟〝二つの事実〟〝二つの心〟〝「と」に立つ〟といった文言に重なるのだが……。

この運動をはじめるにあたって山岸巳代蔵は、〝自然全人一体の産物としての自己(自分)〟から出発していた。山岸養鶏普及にあたっても、くり返し鶏を飼う場合の鶏や社会との〝繋がりを知る精神(心)〟がそれである。
自分が全体の関連の中のどこに位置しているか、一つ一つ辿っていくことによって、自分の立つ位置が分かるとした。確かに自分の働きによる間違いの及ぼす影響ということを考えれば自分の位置の大きさを感じ、またみんなとの一体によって成り立っている繋がりから知る自分の小ささを思い知らされる。
そうした繋がりの中の自己(自分)にとってのいちばんの牆壁は、じつは自己意識や自我や主観や主体といった自分を護る観念から生まれる〝剛我〟観念であった。

その〝剛我〟観念との格闘・脱却劇を、〝我抜き研鑽〟としてもっともリアルな愛情世界の場で演じてしまうのだった。
しかもそこでの〝無意識ですわ、無意識にねえ〟と予期もしないのに起こった本当の恋愛の実践の場では今日までの恋愛・結婚理論など何の役にも立たなかったことであった。
それはヒニクにも真を求める者に課せられた運命というか結婚受難史を予期させるものだった。
いやその前にそもそも〝剛我〟観念とは、〝我抜き研鑽〟とはなにか? 再度軽く振り返ってみる。
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