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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

NHKスペシャル「サグラダ・ファミリア 天才ガウディの謎に挑む」 

先日テレビ番組『サグラダ・ファミリア 天才ガウディの謎に挑む』を観た。
イエスの塔

世界遺産スペイン・バルセロナのサグラダ・ファミリア教会。ついに去年10月、教会の最大のシンボル・イエスの塔の建設が始まった。完成すると、サグラダ・ファミリアは世界で一番高い教会(175メートル60階建ての高層ビルに相当)となるという。しかし、建築家ガウディが残した建築資料はスペイン内戦で焼失。イエスの塔の壮大な構想は長年、謎に包まれてきた。その謎に挑むのは、サグラダ・ファミリアの芸術工房監督として、40年前からガウディの残した手がかりを探し、教会を作り続けてきた彫刻家・外尾悦郎さんだ。
以前にも外尾さんについて触れたことがある。

“今もスペインのサグラダ・ファミリア教会でガウディの遺志を継ぐ彫刻家・外尾悦郎さんのことが以前新聞(2013.6.8朝日―引用者注)で紹介されていた。石を彫りたい自分に気づいて、若き日偶然スペインで石の教会の工事現場に飛び込んで以来、今日までやってこれた理由に、ふとした心の転換があったからだという。
 それはガウディに近づこうとするのではなく、ガウディと同じ視点で見ることこそ必要なんだ、と気づいたとき、ガウディが自分の中にいて、同時に、ガウディの中に自分がいるという感覚が芽生えたというのだ!
 あ、これだ。こんな感じかなあ、と思わずうれしくなった。自分にも思いあたる節があったからだ。”(「と」に立つ実践哲叢22)

糸口は外尾さんの「ガウディに近づこうとするのではなく、ガウディと同じ視点で見ること」、つまりガウディと同じ視点(=位置)に立つというか、ガウディが込めた思い(=心)になることにあった! 
すると「ガウディが自分の中にいて、同時に、ガウディの中に自分がいるという感覚が芽生えた」!?というのだ。
ホント、これこそ目から鱗が落ちる気づきなのだ。これは〝近づこうとする自分〟から自分が〝その人(ガウディ)が見ていたもの〟を共に見るといった次元の飛躍・転換を意味する。この点はいくら強調しても強調し足りないところだ。

風来坊のような一日本人を、石工たちがすんなり受け入れてくれた訳でもないだろう。ただただ一生懸命に石を彫るだけだったはずだ。
その外尾さんが今芸術工房監督として教会の最大のシンボル・イエスの塔の内部をデザインする。塔の中に何を込めたらよいのか? それをガウディが願った心になって探すのだ。
そうした企画案変更の様子が興味深い。

塔全体でイエスの存在を感じる空間にしたかったのでは……。だとしたらイエスそのものがいるという空間とはどんなもの?
イエスが出会った人や風景を形にしてみたらどうか。神と聖霊を象徴するオブジェとか、ガラスのオブジェで森羅万象を〝種〟として配置して、それらを神から人間への贈り物として表現できないものだろうか。
実際に試作品もつくってみるのだが、どれもしっくりいかない。ガウディならどうするか? ヒントは必ずある。
番組では近年失われたと思っていたガウディの資料が大量に発見され、そこでのガウディが境目なく混じり合う色のグラデーションの実験材料から、イエスの塔につながるヒントが明らかになる。 
外尾さんは40年間探し求めていたものを見つけた思いで語る。

“自然には境目がないんですよね。空の色も海の色も。色が無限にグラデーションがかかって変わっていく。ところが人間が作るものはすべて境目がある。それをガウディは悲しく思った。
貧富の格差や社会の分断が広がる中で苦しみが続く人間社会がつくる境目を、自然がつくる自然のグラデーションで乗り越えるといったガウディの願い”
色のグラデーション

を彫刻やオブジェでなく、水・光・時間・土・重力など森羅万象を色に託して色のグラデーションで神から人への贈り物として表現してみようと思い至るのだ。
そんなサグラダ・ファミリアに託されたものを追い求めて止まない外尾さんの発言に励まされる。

そういえば、自分にも思いあたる節がある。
ある秋の「ヤマギシズム展示博覧会」での出来事だ。自分はテーマ(自然と人為の調和)館の担当だった。ところが約一ヶ月前からの準備の中で最初に立てた企画案にNGが出た。何で? テーマの焦点が全くズレていたのだ。そこで関係者で再度寄って、例えば次のような一節

“人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能で、その関連を知るなれば、自己一人限りとの考えは間違いなる事が解り、お互いの間に愛情の含まれるこそ、真理に相違なく、今の社会的欠陥の最大なる原因は、国と国・官と民・業者と業者・団体と団体・人と人とが離れ、相反目している事にあり、政治・経済機構も大改革されますが、その何れにも相互関連があり、この条件を必ず重大要素として組織し、総親和社会への精神革命を必要とする所以です。”

を研鑚しながら、『ヤマギシズム社会の実態』の書は実態の書であって、書でなくて実態そのもの。この実態の書を、実顕地そのものにしていくことが実顕地の深まりなんだといったこと等を確認し合ったことがある。
今にして思えば自分自身大きくズレていたが故の、何と素晴らしい僥倖にめぐり逢えたことだろう! 
その後何度もやっかいな局面に立たされた時、きまってこの一節を一字一句研鑚して心に焼き付けたことが鮮やかに甦ってくる。
人間は言葉による観方・考え方に立つことでしか、現実を乗り越える実態は立ち現れては来ないことを思い知らされたことだった。
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コメント


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必ずヒントはある。

「必ずヒントはある」という外尾さんの言葉が響いてきます。

私は建築設計を業として、そこで展開されるであろう人の心を受けて、暮らしを描いて「設計図」を描き、「模型」を作り、施工する人に托してきた。

あ、「実践の書」が設計図に映ってきた。
実顕地は実物大の模型?かな。私はその通り施工しようとする職人さん?

同じ視点に立ち、同じ方向をみて、実践する。

その通りやるというのは、そういう人になることや。
一体観に立ってということ。
一体とは無我やわなー。


麻野幸子 | URL | 2019-02-19(Tue)17:12 [編集]