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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(162)

〝脱皮〟という飛躍・転換
脱皮

先の〝恋愛・結婚は楽しいことばかりで、歓びに充ち満つるのが本当〟なのに、そうも行かない〝不思議な謎も解け〟たとする「真の結婚を探ねて」の一文を記した1959年11月頃から翌年4月に自意出頭するまでの残された山岸巳代蔵の発言からは、コロンブスの卵の例えにも通じる〝真の結婚へ入れる鍵を見つけた〟発見の歓びが発言の端々に感じられるようになる。
何しろ

“一番難問題とされるこの課題の解決こそ、全人幸福運動の基本であり、仕上げでもある。しかも、最も難解だと思うこの問題さえ解決すれば、他は……。私は、これに取り組んで生きのびているともいえよう。”

として真の結婚を求めて、ようやくにしてヤマギシズムの結婚観に照らしてみた場合どうだろうかと研鑽できそうな域に来られたように思えるからだ。
その辺りの一連の心の動きを、水の中に飛び込んでこそ泳げるようになるといった自分の考えを入れない〝脱皮〟という実行・実践に託していう。

山岸 そうそう。なんとかして、なんとかしてと、こればっかり、この底にあるのよ、底にね。ママさえ分かったらっていうものが、これがその底にあったんや。そしたらこれは、こういう結婚観は成り立つし、そんなんでね、それがそこまでやった、まだここで最近まであったんや。最近までそこに。で、いずれは分かってくれるやろうと、いずれは分かってくれるやろと、こう思ったものね。
柔和子 その脱皮というのはなんということですか。
山岸 脱皮ということはね、あの、苦しまないと、苦しむよりも、どうしたら、あの、どうしたら、なんちゅうかね、苦しんだってダメやから、同情したってダメだから、ダメだから、それで、どうすれば仕合せにいけるかって、こっち考えるのやと思ったんや。それからもう、コソッと楽になった。”(「徹夜研鑚会の記録1960.3.27」)

ずっとなんとかして柔和子さえ分かってくれたらこの結婚観(固定のない結婚)は成り立つのにと苦しんできた。ところが柔和子は頑として三人でなら私が降りますので頼子さんとやってください。先生と二人でならやりたいとゆずらないで来た。頼子に対しても同情している自分の思いも吹っ切れないで来た。

自分はたしかに〝真の結婚は求めたが、苦難を求めはしなかった〟。なのに何故? だとしたらこの間の煉獄の試練は〝真を求める者に課せられた運命〟なのだろうか? “常識世界は冷たかった”(「真の結婚を探ねて」)
本当にそうなのだろうか? 〝苦しんだってダメやから、同情したってダメ〟なのだ。試煉は自ら苦しみ悩む間違いをこそ正し、改め、変化を促しているのではないだろうか?
すると間違いばかりで勝手に悩み苦しんでいる自分自身が浮かび上がってきた。
そんなもうどうにもならなくなった途端、フトどうしたら幸せにいけるかと考えるそんな自分も見え出したのだ。そんな自分に先ずなることだった!
自分自身からの脱皮こそ、真の結婚への絶対条件だったのだ。
ちなみに「ヤマギシズム結婚の五大条件」を挙げてみる。

“一致研鑽前進
○適合男女―適齢 性格 知能 系統
○心行全面一致―仲よし 考え方・行業 真の研鑽一致 無我執
○双方の永久恋愛―距離 時間 動 進 終点なし
○(真の)一致の上の自由―契約・束縛・固定・型・掟なし
○合真理指向―心身健康 快楽歓喜 たのし 自然全人一体観 前進発展”

ここで〝脱皮〟という言葉で表現されるものこそ、ヤマギシズム恋愛・結婚観への出発点にある実践であった。
こうした〝脱皮〟という飛躍・転換のなかに秘められてある実態への好奇心を念頭に置きながら山岸巳代蔵の発言を追ってみる。
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