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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(164)

二つで一つのもの
陽光射し込む

この間何度も二人して、「本当にあの時会わなきゃ良かったな」「俺は三鈷寺(柔和子と初めて出会った特講会場―引用者注)で会わなんだらなと思う」と関係を断ち切ろうとした場面が思い起こされる。

柔和子 そんな話を聞いてると、フッと疲れが出て、それがビーンと反射してくる。どっちも同時に疲れが出て、どっちも落ち込む。そしてまあ、十回のうち七回まで、結局私が機嫌をとるの、「もうやめましょうね」と。(略)
ところが、「もうよしましょうね」と言っているのに、「もうこの苦しみが、この苦しみが」と、相手が、「この苦しみを、この苦しみを」と泣き出すと、「あああ、あなただけじゃないわ」、いたわるのがあほらしくなってくる。こっちの苦しみも察してくれ、とこうなる。いいかげんにしてくれ、とこういうものが出てくる。(略)
山岸 だが、そこに機嫌をとり始めることについて、それまでにきてある状態よね。それを七回は私がとるということになると、それがちょっとね、非常に間違った方に自分自身が入っていくものやと思うの。二人の中に起きた出来事をどっちがどうであろうと、そやないと、お互いに相手を非難する場合に、相手を見やね、自分を分かろうとする時に自分を見ると、こういうものがそこから出るのやと思うの、そらもう同じものやと思うの。なだめる方、なだめられる方、同じものやと思うのよ。僕はそう思えるけど。”

ここで山岸巳代蔵はハッとするような言葉を発している。例えば〝二人の中に起きた出来事〟は〝なだめる方、なだめられる方、同じものやと思う〟と。
この間の〝私があなたの立場だったら〟とか〝俺が柔和子の立場になったら〟と突っ張り合う、間断のない苦しみにお互い責め苛まれる無間地獄から脱け出す兆しがそこに見られるのである!?
この辺りの山岸巳代蔵の発言をもう少し追ってみよう。

山岸 そこんとこ、双方から起ったもので、双方のものだと思う。そこに本当の夫婦の良さがあるんだと思うが。
「ここからよう言わない私や」とね、そういう考え方に入らずに、やはり二人のものや、二人一つのものや、どっちのと言うより、二つの入れ物に入れた水がつながっているように、「僕が至らぬ、あんたが出来てる」と言っても、それは、至らん、出来てる、二つで一つのものと思うの。”

山岸 いや、これはホントやと思うの、それをかれこれとそういう観方をするところに、いろんなもんが出てくるのやなかろうかと。なかろうかやぜ。”

山岸 だから双方至らないのよ。誰か原因作ったとしても、恐怖心が起るのは、至らないのよ。だからといって、そこへ甘えが出たらおかしいやろ。恐怖心が出る私やと、そんならこっちにしてみたら、それにも匹敵する、もっと言いたいが、同じものやと言いたいが、そういうものを感じながら、大変なことになるぞと思いながら、溜息が出るということの中に、いくつもあるということよ。本当に苦しくて仕方ない時もあるし、そういうものを含めて溜息が出るわね。別の意味のも出るわね、そやろ。これも至らないのよ。言うたら、至らないのがこっちにある、どっちにあるとかでなしに、至らないのは二人のものやと思うの。”

ここでの〝二つで一つ〟とか〝どっちにあるとかでなしに、至らないのは二人のもの〟という発言になぜかふっと一条の光が射し込んでくるような心のときめきを覚えるのだ。
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