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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(167)

捨身飼虎(しゃしんしこ)
玉虫厨子 捨身飼虎図(部分)

先の山岸巳代蔵の〝我執の前の我〟の気づきから、〝理屈抜きで、ポンと夫婦の本質の中へ入る〟即断即決の次元の〈転換〉という出来事にもっともっと近づいてみよう。
このことは恋愛・結婚観にとどまらず、政治・経済・社会・人生問題及びその他凡てに相共通していく質のものにちがいない。あらゆる難問題を解く方程式がここにあると直覚するのだ。
今の社会的欠陥の最大なる原因は、国と国・官と民・業者と業者・団体と団体・人と人とが離れ、相反目していることにある。それゆえ謂わば〝平和のために戦争し、神に祈って爆弾を恵む〟呪縛から逃れられないでいる。
この間山岸巳代蔵は自らをまな板に乗せて、血みどろになって本当の恋愛・結婚の実践の場で邪道へ落ち込みながらも、よく逃げ出さず、ヘトヘトになりながらも、理論と実際とのジレンマを脱け出す、すなわち誰でも容易く真の結婚の楽園へ入れる鍵を発見したのだった! 
理論と実際とのジレンマ、それは

“真なるものには、悩み・苦しみはないのが本当だと思う。ヤマギシズムにこうした苦しみがあるということはなぜだろうか。”

といった、ヤマギシズム(理念)と現実との相一致しない矛盾に宿る〝割り切れなさ〟の究明から始まった。
それが〝割り切れた〟のだった! 
その時の発見の歓びを、結婚資格のなかった自らに疎(おろそ)かであった反省の意味を込めて、あの釈迦が前世に飢えた虎の親子と出会い、我が身を投げ出して食わせ、虎の母子(生後間もない子7頭)を救う話に重ねる。

“ついに発見されたキー。理で虎に食われるを説いて、虎を退治しようとして、虎に食われなかった自分……”(「結婚を研鑽(真の科学)する」)

それがなんと〝理屈抜きで、ポンと夫婦の本質の中へ入る〟いや〝意識なくして入っているもの〟からもたらされる境地を如実に実感するのだった。そこへ、もういよいよ入れる段階にきたというのだ。
いったいここのどこに難問題を解く方程式が秘められてあるというのだろうか?
まず一つ言えることは、難問題を解く鍵を〝恋愛・結婚問題〟に見出したところにある。本人の弁を借りれば、怒りの発生しない方法を考案したりして大抵の悩みや心の苦しみは起こらないから問題にならなかったが、予期しないのに起こった本当の恋愛の実践の場では何の役にも立たなかったからである。
こうした〝煉獄の試練〟をくぐり抜けない限りホンモノは姿を現さないものらしい。
かつてマルクスは『経哲草稿』(1844年)で、〝人間の人間にたいする直接的な、自然的な、必然的な関係は、男性の女性にたいする関係である〟と書いている。本稿のメインテーマ「イェニーさん問題」(わが一体の家族考133)にも通底しているはずだ。
自分らの身替わりとなった山岸巳代蔵のぎりぎりの体験から見出された問答無用の次元の〈転換〉ともいうべき出来事にここまで心惹かれるゆえんである。

あの〝我執の前の我〟の段階での柔和子をなんとかしてやろうとする取り組みと、夫婦は一つのものやから、一つになって解決することやし、楽しい状態で解決するのが本当だとする世界は本来まったく別の世界の出来事であるらしい。
現実とヤマギシズムとの相一致しない矛盾に宿る〝割り切れなさ〟とは、そこを無理やり一足飛びに行こうとする自己盲信的な混線から来るものだった。
それが〝割り切れた〟とは、私が見た、私が聞いた、私がこう思ったなどの中に潜在する危ない我の段階のテーマと

“「私の考えは、これ盲信やないやろかな」、「いや、盲信やと決めておいてもいいくらいやけども、そこ決めるのがまた、盲信からくるのやろうかな」と思ったら、あまり突っ張らないわね。どっちもすると本当に検べてみようと、どちらも盲信かも分からない人同士がね。そうなってくるから楽になって、一体になって話が出来る。”

テーマとに截然と区別されるようになったからなのだ。ホンモノ・本質・本当のものというのは比較しようもないもの。目が覚める思いだった。パッと胸に灯が点った。見るもの聞く声皆快く飛び込んできた。
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