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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(172)

秘匿技術の秘匿たるゆえん
夫婦の真字・ふさい

しかもこの“秘匿技術”は、男女夫婦の場合に限らずお母さんと子ども、長幼などの差がある場合にもいえると拡張されていく。
例えば親子の場合、お母さんが優しいから素直にうまいこと子供がいってる、では大変なことになる。甘やかしは、一回、二回はいいが、これが連続になるとどんどん不良を作っていく。それゆえ先ず子ども(幼)がお母さん(長)に下手に柔らかくいくことだという。
そんな夫婦のあり方、親が子供に対するあり方にも絶対に外せない、いわば真理に即応したといえる生き方があるのだという。
しかし下手に出るとか、女の方から強く出ない云々から、昔の封建社会家父長制や軍隊での差別・服従を連想されがちだ。妻でも服従で家庭などうまくいっているとする道徳的な教えとどこが異なるのか?

ところがこの間の山岸巳代蔵は、〝最も知性的で〟〝何でも理知で割り切らねば承知せん〟といった女性が自らポンと外して〝楽になれた〟という〝事実〟に、と同時に自身も〝骨なしにされる〟喜びに包まれた〝事実〟に、

“放したら、澄んだままでありのまま見える。(略)ありのままいったらよいのよ。難しい知恵要らんのよ。勉強した知識要らんのよ”

という〝真理に即応している姿〟を見てとるのだ!
こうした〝こんな人さえ、なれた〟という事実に、誰でも楽にそうなれるという〝発見〟にも似た感動を覚えたに違いない。
研鑚会では、〝下手に出る〟とか〝差別・服従〟についても、

“僕は「女が男に絶対服従や」とはちっとも言ってない。そこ混線するのよ。絶対服従は僕は絶対反対よ。「言うこと聴け」は、「聴け」やわね。そこからが問題や。”

としながら、主観の多い人間の〝聴く態度〟の問題に触れていく。
要は〝絶対服従〟にも、言いなりにその通り何でも行う〝ハイ即実行〟とアホの言うことでも気狂いの言うことでも聴く〝ハイ即研鑽、実行〟の二つがあり、その区分けの大事さが強調されるのだが、参加者の一人が次のように発言する。

“僕はその解釈で一貫してきたのに、一年前では山(春日山―引用者注)の空気は「ハイ即実行」が行われていたようで、そこに未だに溶けぬ疑問がある。”

すると山岸巳代蔵はいう。

“問題はここや。大事なとこで、ゆっくりやろう”

と謎めいた発言をする。なぜなら常識的に考えても「ハイ即実行」には危ない盲信を感じて、即バツ印(×)をつけたい気持ちにかられるところだ。ではどこが問題で、大事なとこなんだろうか。
どうもはじめから〝ハイ即研鑽、実行〟としてしまうと、そうだ、その通りと無意識の「自分の判断」が安易に忍び込んでしまいがちだ。これでは出来るか出来んか分からない自分になって聴くとか、〝零位〟になって聴くには程遠い。
「まあ聞いてみてよかったら」は、やっぱり自分の物差しで聞くから聴いたことにはならないと、今までの常識的な甘い分かり方を思い知らされるところだ。
ここでもあのどこまでいっても通じ合わない〝もどかしさ〟しか残らない、そんな今までの自分ら夫婦のテーマにぶつかるのだった。

例えば〝絶対服従〟にも二つあるといった区分けが、今もって解明されていなく見過ごされている個所だ。
むしろ現代社会の潮流は、そのもの〝らしさ〟を消してフラット化していく方向に時代の〝進歩〟を見てとっている。
その代表的なものに、人間の中の男と女は、どちらも人間であるという本質的なものと、異性であるという本質的なものを混線して、何もかも性の異いまでヒューマニズムや民主主義で一律に律していこうとする考え方がある。
じつは戦争なんか誰もしたくないのに戦争に突入していく根がここでいう〝甘い分かり方〟に潜んでいるはずだ。
そうした近頃の自分ら夫婦の〝外し〟体験から、夫婦のあり方・無理のない夫婦像としてフェミニストが聞いたら目をむく発言をする。

“夫婦は段があったらうまくいく。奥さんの良い(腕達者、利巧なの)のは有り難くない。奥さんが上なのは絶対うまくいかん。”

との内実を伴って立ち現れてくるものがあった。しかもそのことが絶対服従と違うことを研鑽しながら、この間苦しんできた〝もどかしさ〟の真因が研鑽の光に照らし出されて来るのだった。
ここに幸せに暮らす秘匿技術の秘匿たるゆえんを見るのだが、ここは一つ様々な角度から、ゆっくり検べていきたいところだ。
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