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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(181)

全人幸福いずこにありや
歯車の組み合わせ

ともあれここまでヤマギシズム恋愛・結婚観に基づいて「最も相合うお互い」を見出し「生かし合う」というのも、人間として何をどう考えて、どのように行なうかと云うあたりにつきるのだろう。山岸巳代蔵はいう。

“人生最大の意義は「結婚の華」と「よりよき創造の実」の歓びであろう。”

すなわち、「素晴しきは、真の結婚と生涯かけての行蹟」であるとしている。
夫だけでも、妻だけでも、何もなし得ない。夫は夫として生きない、妻は妻として生きない。それでは男でないもの女でないもの。男女寄って初めて、男の、女の、持ち味が本当に生かされるもの。まして気持ちの離れた夫婦では、絶対に本当の仕事は出来ないとするのだ。
では〝歓び〟や〝素晴しき〟に通底する本当の仕事とは? 次のような発言もある。

“そこにちょっと、昔の出家はあれで本当の仕事が出来たかどうかを考えてみたい。あれが自然の姿かと、それでは本当の仕事になったかどうか、ということ。これが健康、幸福な条件と言えない。その人は仕事が出来たと思っても、逆なことになってたかもしれん。
そこで、「夫婦とは」、「人間とは」と検べてみて、先ず夫婦一つだとの観方に立って、男と男と寄ってするより、夫婦が一つになってする仕事の方には、本当のものという意味で質の異うものが出てくるので、半分でやったのでは、本当の仕事になってないというのも出てくる。”(第四回理念研鑚会 1960.9.10)

こうした観点から無固定の結婚形式とか男女の組み合わせ一つ採り上げても、お互い好き同士の〝お似合いのカップル〟にとどまらず、〝最も一番相合う〟夫婦の繋がりでいこうとする方へと掘り下げられていく。
例えば次のような発言もある。

“仕事しようって、そんなものでないね。そんなもんじゃないね。僕はね、こういうこと言えると思うの。ずーっと一貫してんのね。この、固定のない結婚観ね。固定のない、誰だ彼だっていう、こりゃちょっと、一端聞いたらまたどういうふうにとられるか分からんけども、固定のない結婚観。だからもう大村公才っていう、誰かにもっとも適当な人達に利用してもらったらいい。活用、活用というかね、いろいろ相合う人があると思うの。
僕の、またこんな話入っていいか知らん。これを間違っているか検べてもらったらいいと思うけども、僕のその考え方では、女は、女性と男性と違った部分がたくさんあると思うの。女性は、「こんな男」と思ったら、もうイヤになってくるの。また男も、女に対して劣等感感じた時には、とても重荷感じるの。いろいろの、こらあの、要素があると思うけども。女の場合と男の場合は一応これ掴まえ、違うかも分からんと、どういう点が違うかと、これの検べも必要やと思えるの。やはり心から尊敬する人でなかったらっていうかね、そうでなかったら肉体も、むろん精神的が肝心で、肉体も、あの、どうしたって汚れるような気がするのだと思う、女の場合ね。その反対に、男は、男よりも劣った女性というか、なんかこう、劣ったってというたら、これは劣等感とか優越感とか、そういうもんでなしに能力的に劣ったとか、いろいろな点であると思うの。でまあ、その男を、やはり心から尊敬できる女性というのは、その男が、「物足らんな、こんなくだらんな」と思ったら、これはもう、それこそもう堪らんだろうと思うの、女の場合に。そういうのが多いというかね、そんなもんやないかなと僕には思えるの。”(「徹夜研鑚会の記録」1960.3.27)

きっと山岸巳代蔵の胸中を、〝これはどう考えても、これじゃなかったら、うまくいかん。世の中うまくいかん。これじゃなかったら、うまくいかんものやと、こう思ってきた〟と何度も何度も普遍性・真理性に照らした場合どうなのだろうかとよぎるものがあったにちがいない。たえず〝本当はどうだろうか〟の知性が働いていたのである。
そこには全人の優れた公器をあたら傷つけ汚したくない気持ちがあった。それゆえ組み合わせに於いて将来もっと良いのがあった場合等々に備えて、

“お前が相合う者できたら、そちらへ行くこともあるし、私も最も相合う者ができたら、そちらに行くこともある”

という自由の〝観念〟をはじめに入れておくことの大切さをもダメ押しする。
最も知性的に、効果的に、人間に与えられた最大の贈り物というか、恩典に浴し得るよう方向に全てを賭けて生き貫いてきた。
ただそれを実証づけるものは、〝先ず夫婦一つだとの観方に立って〟の〝ポンと外し、ポンと夫婦の本質の中へ飛び込む〟実践だった。
ここにおいてはじめて〝零位よりの理解を〟の真骨頂が発揮されていく。
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