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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(182)

人生踊りの踊り場
鶏舎の止まり木

それにつけても〝質の異う本当の仕事〟の内実に迫っていくならば、どこから入っていけばよいのだろうか。そもそもここでの〝本当〟とか〝生(活)かす〟とは何を指しているのだろう?

この間の今や一般から見て関心は薄く、顧みられない〝本来ある男らしさと女らしさ〟といった記述にどんな意義があるのだろう?
そうした自問自答をくり返していると、あの煉獄の苦しみに象徴される〝一人ぼっちのさびしいもの〟とあの通じ合わなさが溶けた時のなんとも言えん〝喜び〟の気持ちの二つの場面がありありと浮かんでくる。
なぜかそこに本当の幸せ・仕事というか宇宙自然に繋がっているものの中の人間で出来る、人間だけしか出来ない、またしなければならないものが浮かび上がってくるようなのだ。
振り返るとずっと、〝ヤマギシの村づくり〟と称しては、

○らしさ――村の男 村の女 村の子供 村の青年 村の娘 村の老人等、各位で村人らしさに治まる。
○我執が無くなれば、その人はその人なりに素晴らしくなれるもの。

等々といったテーマで研鑽してきた。
しかも普段の仕事・作業は養鶏が主だったからか、鶏が夜眠る場所である止まり木の例えで〝理想社会〟の仕組みをイメージすることが多かった。曰く

○中高・後高の止まり木には一羽一羽の適応・好みの場が得られるような環境で、一つの場を何羽かで争うことはない。
だから鶏が止まり木に上がり始めた時、蹴落としと見るか、それとも自分の場を見つけるまでの間と見るか。
○そんな観点で一人ひとりが無理をしない理想社会の一面を描くと、人間も一人ひとり治まる場に治まっていく・治めていく、そんな姿があるはず。相手の場に押し入らないような……。
だとしたら一人ひとりのどこに焦点を当てていくのか?
○鶏が100羽居れば100羽の空間が等しくある。偏っていない。鶏の居る空間を観れば、その鶏の正常健康な状態がわかる(配置がよい)等々。

どうも、〝調和(相合う)を図る〟とか〝組み合わせ〟とか〝配置(場所)〟とか〝らしさ(らしく)〟等々に込められてあるものの探求が理想実現への急所らしいのだ!?
そう言えばよくネズミの被害が話題にあがった。鶏の餌が原因で極端に異常繁殖したりして、日々その対応策に追われがちになる。
ネズミにしてみたら食物があるから繁殖して子を産んで、嫌われて毒なんか盛られて殺されるのはよい迷惑かもしれない。
だとしたらすでに産まれたものを殺すのでなく、前もって住めないように人為を講ずる事が求められる。
つまりは共生共活・調和・適材適所というか、それぞれの場に就いて、活かされる場所に生きたらよいだけなのだが、そんなネズミ退治(?)の話から理想社会づくりまでに即飛躍して繋げてしまえるところに日々の面白さを実感してきた。

ネズミにはネズミの住むところ、人間には人間の在り場所があり、宇宙自然に繋がっている自分に最適の位置があるはず。仕事でも自分に最も合うところがあるはず。そこには他のものを侵すこともないし、仕事がイヤだと思うこともない。
そうした相合うというか調和をどこまで図れるか、その組み合わせを研鑽でやっていこうとするところに〝ヤマギシの村づくり〟の醍醐味があるのだろう。

先の作家・村田沙耶香さんは本当の本当を求めて思考実験小説『消滅世界』(わが一体の家族考179)を表現されたように、ヤマギシズム理念実顕生活というか、
「共存共生の世界
 たれのものでもない
 たれが用いてもよい
 最も相合うお互いを生かし合う世界」(1960.1.13)
観に立って見ると、

○その人なりの範囲を尊重しつつ、
○その人らしく生きてもらうために他のものが替わってやることもあり、
○そんなお互いがらしく生きる世界には、機構・制度・法律や警察などは余り要らなくなってくる。むろん皆の目につく所に貼りつける張り紙も要らなくなる。

といった理念が生きてくる人生踊りの踊り場、即ち生きている間の慰みにもなるような場づくりが渇望されてくるようなのだ。
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