FC2ブログ

自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

「と」に立つ実践哲叢(48)

そこに見出された世界
愛和館リニュアール

春日山食堂「愛和館」がリニューアルオープンしてもうすぐ一年近くになる。それまで枯山水の池だったところが埋められ、段差のないオープンテラス仕様になりずいぶんと開放的な広い空間に変わった。
この夏夕日が沈む頃まで「愛和館」の前の芝生でボール遊びに興じる娘たちや、いつまでも食堂の片隅のテーブルで話し込んでいる男の子らの姿を目にしていると、なぜか新しい発見をしたような気持ちのたかぶりを毎度のことながら覚えてしまう。
先日読んだある書の終章のはじめにあったエピグラフが浮かんできた。

「真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新しい目で見ることなのだ」(マルセル・プルースト)
なるほど〝新しい目〟なのだと胸にストンと落ちる。でもいったい〝新しい目〟って何? それに〝新しい目〟で見られるにはどうしたらよいの? 「一体食堂愛和館」もリニューアルなったその〝新しい景色〟に感じているだけにすぎないのでは? だんだん心許ない気分になってくる。

そんな先々の姿をお見通してか、第一回「特講」(1956.1)開催直後の山岸さんは、〝「見る眼」は正しく見られる心が出来たか出来ぬかによって定まる〟と歴史的快事を目の当たりにしてやや興奮気味に次のように語る。

▽今の世の人々の眼は、一部を除いてはすべて狂い怒った眼である。今にしてこの狂った眼をヒックリ返さねば、人類最大の悲惨と残虐が襲いかかってくることは必定である。
▽「正しく見る眼」はまた、狂った眼の見えぬものまではっきり見えるから面白い。鶏の飼料として餌屋の売り出すものと、我が田畑で出来たものと、臭い魚あらと近頃流行の雑草とやら以外に見えない眼のあわれさよ。餌はどこにでもいつでも無尽蔵にあって、それがありありと見えるではないか。そして人の世の至宝も、永遠の幸いも。
▽狂った眼の悲しさよ。怒った眼の怖ろしさよ。怒り狂いをヒックリ返して、暖かく、清く澄んだ、そして和やかな正しい眼を持つことこそ、生き甲斐あらんとする人の第一の仕事ではあるまいか。
そして怒り狂った今の世に、この眼を入れ換える所がたった一つある。たしかにたった一つ──それがどこにあるのか、「見る眼」に入れ換えようとする人々にはそれがはっきり見えるはずである、としている。

そう言えばエピグラフの出典はフランスの作家・プルーストの『失われた時を求めて』だった。ある日マドレーヌのひと切れを浸しておいた紅茶を口に運んだ、まさにその瞬間呼び覚まされた〝えもいわれぬ快感〟から始まる長大な物語だ。
そこに見出された世界は先回のお母さんの眼に、今のIさんの目に飛び込んできた〝何ともいえない嬉しい気持ち〟に、あの「特講」でのキメつけていた観念を放したその瞬間湧き出てきた〝愉快の幾千万倍の気持ち〟にも重なる気がする。  
関連記事
スポンサーサイト



PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する
 

正しい眼

先頃、母が親として立ってくれていたんだ、と思えてから私のおばあちゃん達をみる眼が変わった。
どの人もそのまま価値がある、と映ってきたのです。

そんな時、介護部から声がかかりました。デイサービスから帰って夕食までの時間をおばあちゃんと一緒に過ごしませんか?

始めたばかりですが、何とも楽しいのです。
ただ受け入れてもらう心地良さ、「柔あるのみ」の感覚。

今度は小さいハープを持って歌を、スケッチブックと柔らかい鉛筆で似顔絵を描いて遊ぼうかな、と拡がっていきます。

麻野さちこ | URL | 2019-10-11(Fri)16:28 [編集]