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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

28 多田富雄の叡智(中)

まず多田富雄の代表作『免疫の意味論』から、赤線を引いたところを順番に並べてみる。

「伝染病から身を守るしくみという程度に考えられてきた免疫」
「免疫は、病原性の微生物のみならず、あらゆる『自己でないもの』から『自己』を区別し、個体のアイデンティティを決定する」
「個体の行動様式、いわば『自己』を支配している脳が、もうひとつの『自己』を規定する免疫系によって、いともやすやすと『非自己』として排除されてしまうことである。つまり、身体的に『自己』を規定しているのは免疫系であって、脳ではないのである」
「『胸腺』こそ、『自己』と『非自己』を識別する能力を決定する免疫の中枢臓器なのである」
「『胸腺』は文字通り胸の中にある軟らかい白っぽい臓器である。若い動物では心臓の全面を覆うようにかなり大きな面積を占めている。人間では十代前半で最大となり、約三十五グラムに達する。性成熟後は急速に小さくなるのも特徴である」
「この『胸腺』からサプライされる細胞が、Thymus(胸腺)のTをとったT細胞と呼ばれるリンパ球である。T細胞は、いろいろな免疫細胞に参加し、ことに『自己』と『非自己』を識別し、『非自己』を強力に排除するための免疫反応の主役となる」
「T細胞は、直接的には『非自己』なるものを発見し、それと反応することはできないのである。『非自己』そのものには見向きもしない。『非自己』はまず『自己』の中に入り込み、『自己』を『非自己』化するらしい。それがT細胞によって認識されるのである」
「T細胞の『非自己』の認識は、もともとは『自己』の認識の副産物であることが、こうして明らかになってきた。まず『自己』に対しては反応しないように認識の構造を設定し、それをそのまま利用して、『自己』が『非自己』化したことを認識させる」
「『非自己』の認識と排除のために発達したと考えられてきた免疫が、実は『自己』の認識をもとにして成立していたのである。免疫は、『非自己』に対する反応系として捉えるよりは、『自己』の全一性を保証するために存在するという考えが出てくる」

ここには細胞から始まり分子や遺伝子の解析をすすめながら、つまり物質の構造をどこまでも精緻に突きとめながらも、同時に絶えずそのことが意味するものへと綜合哲学的に物を観ていくというか、生命を全体として考えていこうと試みられる。それはあたかも天幕ばりのサーカス小屋でのブランコ乗りのひとつのブランコから他のブランコに飛び移るスリルと緊張感に満ちた冒険でもある。

「身体にばかり使う言葉ではなく、心も生命も、有無現象、能も、諸事万物凡てがそれぞれに、及び一連として、真理に即応した正しい状態を指し」(山岸巳代蔵)て、そこに向かって多田富雄の叡智は輝く。

「免疫学が金科玉条としてきた『特異性』を超えてしまったインターロイキンによる運営。これが1980年代に免疫学者に突きつけられた現実であった。伝染病の治療や予防という、目的にかなった免疫反応から想像されていた免疫系とは、なんとかけ離れていたことであろうか。そして、なんと不気味に、さまざまな危険を内包している不明確なシステムであったことか。『自己』と『非自己』を識別し、『自己』を『非自己』から守る、などという原則は本当は存在しない」
「免疫系における『自己』と『非自己』の識別能力は、環境に応じた可塑性を示すのである」
「私は、ここに見られるような、変容する『自己』に言及しながら自己組織化をしていくような動的システムを、超システムと呼びたいと思う」
「人間の免疫系を構成しているリンパ球系細胞の総数は約二兆個、その約70パーセントがT細胞、残りの30パーセントが、B細胞およびそのほかの細胞である。重量にすると約一キログラム」
「超システムとしての免疫系に、老化はどのように現れるのだろうか」
「免疫系の老化は、胸腺という臓器の,加齢による退縮に依存している」
「個体の老化には、まるで入れ子型のロシア人形のように、神経系や免疫系などの超システムの老化が入り込んでいる」
「『非自己』が侵入すれば、免疫系はいつでもアプリオリに反応するなどというのは幻想であったことがわかる。そのすきをついて、癌は免疫から限りなく逃走する」
「『自己』と『非自己』の境界にある癌」
「その曖昧な『自己』を保証するものは何だろうか」
「昨日まで『自己』であったものが、今日は『非自己』となり得る」
「そうすると、『自己』というのは、『自己』の行為そのものであって、『自己』という固定したものではないことになる」
「『自己』と『非自己』は先見的には区別されない」
「免疫系は、この危険なバランスの上に成立している」

無限小から無限大までの範囲での階層性、段階性、重層性、境界性とそれらを超えた全体性、一体性、そして相互関係を一体に結びつける創造性などを踏まえないと開けてこない世界についてあらためて想う。

「自己」と「非自己」の境界に立つとは?
「と」に立つ思想。生命にとっての「自己」は、たえず調和をはかりつつ身替わり(立替え)の形である時期生きて、消え去っていく。

さてここまでは、専門家・多田富雄による生命にとって「自己」とは何かの、移りゆくスリリングな考察史だ。ここで繰り広げられる人間叡智の輝きは、花粉症や各種アレルギーやエイズや老化や癌や自己免疫病やインフルエンザウイルスなどの免疫学の一分野に留まるものだろうか。著者は真底自覚的なのだ。何に対して? 科学(科学者)は今生命の細分化という問題に直面してドツボにはまっているかのようなのだ。生命を全体として考えることが如何に困難になりつつあるかを痛感するのだ。そこからの脱皮、飛躍、革命の瞬間を、そして「無いものが見える」世界を一貫して追い求めてやまない。どこかで専門ならではの目先の堅固な重箱の隅をつつくやり方を超えたいという解放された大胆かつ乱暴なやり方を心底に秘めているかのような……。

これこそ私たちの「と」に立つ思想、生き方そのものでないのか! 他人事ではなかったのだ! もう少し私たちの身近な例を通して多田富雄の叡智を人間知、私たちの叡智にまで引きよせてみよう。

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