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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

 新年に当たって

「われ、ひとと共に…」の精神
森の僧侶パイサーン師(スカトー寺住職).

先日タイ東北部の田舎を歩いてきた。昼下がりとある村の中を歩いていたら、常夏の国らしくハンモックに吊り下がって昼寝している人を見かけた。するとふとそんな姿に時間が止まったような深い安らぎをおぼえた。
たぶんその日の朝、日常の何気ない例えば歩くという行為も〝法に従う〟とか〝法と共に歩く〟とか〝法の中を歩く〟ことで〝心の中に法を育てていく〟ことになるといった、少しずつ表現を変えて語る「森の寺」の僧侶の言葉が心に残っていたからかもしれない。
というか、次のような経緯もあった。

昨年10月5日から12日までスイスでドイツ語特講が開催された。そこへ日本からスイスの特講はどんな感じでやられているのかと、特講の係スタッフに通訳一切無しで入ってみた松本哲さんの感想が先月号の「けんさん」紙に紹介されていた。言葉は分からないけどラジオ体操などでみんなの見本になってみたりして、一緒にやるみたいなのも少しは体感して結構面白かったという。
スイス特講

帰ってからの彼の感想に、会の会旨「われ、ひとと共に繁栄せん」の研鑽では〝ひとと共に〟の〝ひと〟は〝人〟とは書かなく、〝陽土〟にもかかっていることが強調されていたというのがあった。英訳では、I,a part of nature,do my best to prosper with all men,the sun and the soilとなっている箇所である。たしかに翻訳としては間違ってはいない。ひ=陽=太陽・と=土=大地、即ち父なる太陽と母なる大地、その父母によって生みだされた万物。なかでも万物の霊長といわれる〝われ〟という主体が、自然や環境と調和していこうとするエコロジカルな生き方こそ今切実に求められている。
しかしだからといって、遠慮してたら自分の立場が無くなるからと、止むなく自分で自分を護り主張する〝個々人主義〟を肯定したままに、自然全人が真に調和した健康正常な姿を思い描けるだろうか?
そんな〝人〟の革命が不問にされがちな懸念を彼の発言から感じとれたからである。

ヤマギシ会が発足して以来一貫して問い続けてきたのは、会旨「われ、ひとと共に繁栄せん」の主語、主体はどこにあるか? といった実践テーマではなかっただろうか。もちろん考えて答えを見つけることではない。
例えば有精卵の供給活動が始まった頃、卵の黄身が白っぽいとの苦情が活用者から多く寄せられたことがあった。困ったことになったなあと心が揺れた。黄身が濃いだの白いだのと一喜一憂している自分がいた。
そんな折、研鑽会で「やっぱり赤いものは赤いし、白いものは白いかね?」と問われた。いったい何を基準に比較しているのかと問われた思いがした。自分らヤマギシストの真骨頂は、白でもない赤でもない〝真っ白な赤〟!?を産み続けることではなかったのかと。
曲がりなりにもここまでやれてきた秘訣は「共にやってきたから」という感慨がひとしお湧いてくる。主体はわれにも、ひとにも無く、「共に」にあるのではなかろうか。

そんな「共に」に心を置いてみると、理想社会のあり方も今まで気づかなかったことの数々も、自分たちの心境の高まり深まりと正比例して反映してくることが実感される。
この線に副ってこそ家庭も社会も人生問題も自ずと解明されてくるのではなかろうか。





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この年末・年始に味わったことがある。今年の干支、ねずみ年に描いてほしいと降ってわいたのは11月初め。どんなお正月にしようか、と投げかけるも、村人500人に里帰り500人?1000人この食事をどうするか?市販のお節を購入するから、里帰りは考え直そうとか、ジットリと重たい空気。
そこへ「もうねずみ年ではやれません、と出したら」と爆弾。
そこから、眼が覚めた。「楽しいお正月にしたい」「楽しい?って」今までやって来たお正月を見直そう。
やりたいことがポンポン。若い果林ちゃんはロビーに「絵に描いた餅」を貼ろう。門松を、凧上げつくり、除夜の鐘。餅つき。きりたんパン。新春ちゅうちゅうカフェ。フッサル。
ねずみ研と運研、調正研が重なって、どんどん形が見えてくる。元旦の餅つき、新春のつどい、野球場での凧あげ、カフェも盛況。里帰りのひとたちもやり場があって、楽しそうだった。「共に」って、思いではなく、事実かも、と味わった新年だった。

麻野さちこ | URL | 2020-01-07(Tue)17:58 [編集]