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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

鈍愚考(2)

思いがけなくも
自然の生態系

昨年秋のことだったか、かれこれ50年近くぶりに兵庫県の北条実顕地を訪れた。わずかに古びた二軒の家屋に当時の面影が残っているだけだった。
ところが思いがけないことに皆の歓待を受けた夜半ふと目覚めたとき、かつてこの地で開催された二週間の「ヤマギシズム実顕地用養鶏法研鑽会」での一場面が鮮明に思い出されてきたのだ。
それはたしか次のような一節、

“山岸養鶏では(技術20+ 経営30)× 精神50と、精神面を強調するのは、鶏を飼う場合の鶏や、社会との繋がりを知る精神であって、自分一人よくなろうとの精神では、養鶏も絶対に成功しないとの原理精神のことです。
何も修身や修養や道徳を云っているものでなく、寡欲高潔ないわゆる人格者でないと鶏が育たぬとか、卵を産まないというのではなく、また社会奉仕をせよと強いるものでもなく、この場合の精神とは、大いに儲けて、永久に養鶏を栄えさすために、必要で欠くことの出来ない、一番先に知らねばならぬ根本精神のことで、他の養鶏法はともかく、山岸養鶏はこの精神が欠けては、絶対に成功出来ない仕組みになってあります。”(『山岸会養鶏法』)

を読んで、ここでの〝繋がりを知る精神〟とは何だろうかと皆で意見を出し合った時だ。
参加者の一人で、その頃個人生活から慣れない実顕地生活に入るための産婆さんのような役を務めていた実顕地造成機関の杉本利治さんから、「人と人とのあいだが大事」なんだという意味の発言が何度かあった。
その場面が不意に甦ってきたのだ。
そしてそこから実顕地に住み始めて間もない自分らに向けて「なーんだ、最初から一番肝心なことを言っていたのだなあ」と杉本さんからの一言から何か新しい気づきを得たようなうれしい感慨が湧いてきたのだった。
もちろん研鑽会では、何を言わんとしていたのか自分の中で未消化のまま宿題として残ったのだが……。

多分ここでの〝あいだ〟とは、相互の間柄というかコミュニケーションの大事さを指しているわけではないはずだ。社交や取引や利害関係での関係面を有利な方向にもっていくために気やものを使い合うことを意味しているわけではないはずだ。親子・夫婦・人間間問題を良くするために努力し妥協しあるいは共通の目的の必要性を問うているわけでもないはずだ。
それぐらいは理解はできたし、〝繋がり〟も自然界の生態系としての教科書的な説明は理解できそうだ。
しかし次のような表現で〝繋がり〟が解説されるとどうだろうか。

“人には一人の敵もなく、みな身内です。そうではありませんか、両親を辿っていけば……子孫の行く末の、末の結合を考えれば……どうして一家一門の間で争ってなどいられましょう。
しかも遠く離れた人との結合ほど良縁で、優秀な子孫が産まれる事実は、幾千里離れていても夫であり妻であり、兄弟・親子の間柄にあるもので、その繋がりさえ分かれば、どんなことがあっても憎み合えたものではありません。”(「山岸養鶏の真髄―6求むれば得らる」1956.3)

ここでの〝その繋がりさえ分かれば、どんなことがあっても憎み合えたものではありません〟という箇所である。
繋がりさえ分かれば、家庭の不和はもちろん社会の紛争・戦争が無くなるのだという!? 論理が飛躍しすぎてはいないか? いや、ここで言われている考えをそのまま受け取ったらどんな世界が展開するのだろうか。

そしていつしか自分は、〝あいだ〟のことを〝繋がり〟の意味と解して、そこに大事なものが潜んでいるはずだとして自問自答する日々を重ねてきた。
なぜか〝繋がりを知る精神〟とか〝その繋がりさえ分かれば〟の真意の一端に触れることが日々の喜びに直結するそんな生き方を切実に欲求している自分をどこかで感じていたからである。
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