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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

鈍愚考(3)

スリリングな実践
自動券売機

ヤマギシの村に住み始めてしばらくして、職場配置が養鶏部からヤマギシズム出版社に変わった。後に出版社の先輩であるOさんから、その頃発行されたヤマギシズム運動誌『ボロと水』第二号に掲載された作家・島尾敏雄に触れた文章を読んで感じるところがあったのだと聞かされた。というのも、あんな昼行灯な人間に出版活動が勤まるのかという反対意見を押し退けての選出であったらしい。

仕事の一つに、薄暗い倉庫に積まれた山岸巳代蔵に関する資料の整理があった。その中に「ヤマギシズム生活実顕地について―六川(むつがわ)での一体研鑽会記録から」というほこりをかぶったガリ版刷りの冊子があった。
現在の六川実顕地(和歌山県)が誕生する直前の研鑽会記録だ。
何気なしにぱらぱらとページをめくっているうちに、次のような一節に釘付けとなった。

“投機やバクチまでやった人はちょっとおもしろい。肚が出来てるというか……。誰でも底にあるから、そういう体験――そこから気づいていけるものだが――それのある人は話が通じる。早い。破産して立ち上がった人は強い、絶対線を持っている。まず心が出来てからは強い、安心。安心から出るものは軌道に乗っていく。よし失敗しても、それを体験として生かしていける。(略)
暗く見る人と、事実その中で生きていく強い自分を見出している人と、二つの逆の考え方がある。暗く見える人はそればかり見える。心の解決できた人は、やがてそれが明るい豊かな世界が来ることが見えている。”

ここでの〝事実その中で生きていく強い自分を見出〟すといった表現に惹きつけられた。そう、そう、こんな感じ。ああ、こんな風にうまく言い当てることができるんだ、と飛び上がるほど嬉しかった。あたかも自分が自分に出会えたような喜びに包まれた。

というのも学生時代からの自分の一番の悩みは、吃音にあった。思うことを思うとおりに気楽に話すことができないくらい辛いことはなかった。自分の無力さに打ちのめされてきた。
そんな風に感じていたからか、ずっと自分の心を慰めてくれるものを求めていた。例えばその頃文芸誌で見つけた一編の小説を我がことのようにくり返し読んだ。

“切符を買うにも声が詰まり、レストランや喫茶店で注文するのにも声が詰まり、ちょっとした会話でも吃り吃りでなければ話せず、電話に恐怖し戦慄し、さようならを言うのにも難儀する人間にとって、吃音以外のことがどうして問題となりうるだろう?”(金鶴泳『凍える口』)

今でこそ自動券売機で気軽に切符が買えるが、当時は窓口で行き先を告げなければならなかった。これが難儀なのだ。とりわけ山手線の〝高田馬場(タカダノババ)〟という駅名が言いづらかった。そこでいつも十円高くても比較的発語しやすい一つ先の駅名(目白) を告げて切符を買っていた。
そんな馬鹿げたことをやっている自分にほとほと愛想が尽き果てていた。ふと気づいたことがあった。切符を買うには、やっぱり駅名をはっきりと告げなけねばならない。ルールに従ってタ・カ・ダ・ノ・バ・バと。
誰もがやっている当たり前のこと。やってみるしかないのだ!
前もってコントロールできないのだから、なおのこと上手くいくか吃ってしまうか実際やってみないと分からない。そのことが不安で不安でたまらない。でも畳の上の水練で、やってみないと分からない。
自分のなかでは〝あっ、そういうことか!〟と何か吹っ切れたような気がしたのだ。

それにしても自分という人間が〝事実の中〟にあり、そこでの〝強い自分〟をそのつど見出してはヤッターと快哉を叫ぶような、そんな観方・考え方は何ともこっけいでもあり不思議でならない。
最近になってフランスの哲学者エマニュエル・レヴィナス(1906-1995)の弟子を自称する内田樹さんが自身のブログで次のように語っていたのを知った。

“例えば、私は中学生の頃、とつぜん「た」行で始まる単語を言おうとすると吃音になるという時期があった。
「たかだのばば」と言おうとすると単語が出てこないのである。
駅の窓口で「う・・・」とうめいたきり立ち尽くすということが何度もあった(当時は自動販売機がなく、窓口で行く先を告げて切符を購入したのである・・・というようなことを説明しないといけない時代が来ようとは)。
しかたがなく、高田馬場へ行くときは「目白」とか「池袋」といって切符を購入した。
このような言語活動上の「偏り」は主体的決断でどうこうできるものではない。(略)
それについて「正しい」とか「間違っている」とかいう判断は誰にもできない。「あ、そう」という他ない。”(「エクリチュ―ルについて」2010.11.5)

ホント、〝このような言語活動上の「偏り」は主体的決断でどうこうできるものではない。〟のだ。つくづく同じような考えに至る人がいるものだなあと親しみを覚える。

二つの逆の考え方があるという。そのもう一つは〝事実と思いの分離〟といった自分よりの頭の理解とは異質の、いわば〝ポンと飛び込む〟スリリングな実践を迫ってくるような真逆の考え方であるらしい。
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