FC2ブログ

自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

鈍愚考(5)

移動祝祭日(上)
移動祝祭日

〈もし君が幸運にも青年時代にパリに住んだとすれば、君が残りの人生をどこで過そうともパリは君についてまわる。なぜならパリは移動祝祭日だからだ〉(アーネスト・ヘミングウェイ1950年)

職場での日々の編集作業や「特講」写真の撮影・フィルム現像から焼き増し等の仕事はだいたい午前中に片付けて、午後はきまって夕方Oさんと二人で飲む焼酎のアテもかねての魚釣りや山菜採りに多くの時間を費やした。多分Oさんは自分の性格を見抜いてか何かと外へと連れ出してくれたのだ。人生における遊びの要素の大事さを身をもって伝えてくれていたのだと思う。
また意見があったらその場で言ったらよいのに後でウジウジ繰り言をくり返すそんなじぶんの性根を叩き直してくれた。

ヤマギシズム運動誌『ボロと水』の編集では、鶴見俊輔(哲学者、評論家)さんや「特講」に参加されたばかりの見田宗介(社会学者)さんに登場してもらっていた。そこで次回は、当時若者に人気があり自身もファンの一人だった詩人、評論家の吉本隆明さんに登場してもらおうと依頼の手紙をOさんにも推敲してもらって出したことがある。
その時は梨のつぶてであった。ところが3~4年してからご家族の方が実顕地にお見えになって一緒に伊賀島ヶ原の石仏探しに田んぼのあぜ道を歩いたり、お土産に採りたての栗を持ち帰ってもらったりした思い出がある。
晩年まで吉本さんには〝ヤマギシ会〟の試みが傍目にも危なっかしくて見ちゃいられなかったらしくよく話題にされていた。例えば、
山岸会式管理方式に象徴される〝疑似ユートピア〟を乗り越えるためのたった一つの指針となる原則として、

“すべての管理システムをもっている国家、社会、部分社会は管理される者の利害、健康、自由を最優先すること。これに反する管理システムは破棄されるか、または修正されること。”(『中学生のための社会科』2005.3)

だと人間が描きうる可能性の世界について言及されていたり、
また国税局による税務調査で申告漏れが指摘されたり、脱会者が次々と告発本を出したことも大きく影響したのか、生産している食品が売れなくなるという事態にも直面した時は、
「おやっ、これはいかんぜ。ヤマギシ会は社会に対して閉じている。もっと開かないと……」と最後まで心配をかけどおしだった。
そこには吉本さんからの熱いメッセージや励ましや温かい思い遣りが感じとれた。そうか、そうかもしれないと半分は同意し、半分はいや、ちがう。大事なものが未だ未然のまま残されているはずだと、その半分のところから催促してくるものが今も書き継ぐ源泉になっている。

またこの時期、『ボロと水』4号、5号で
○「前渉行程論(1)―〈養鶏法〉の位置と方向について」1972.9
○「前渉行程論(2)―ヤマギシズムの〈仕組み〉の特異な展開」1974.1
続けて会の機関紙『けんさん』で
○「インタビュー適正規模実顕地構想」1975.11
の三部作を編集した。
これは先述の実顕地造成機関の世話係だった杉本利治さんにその時のじぶん自身にとって一番の切実な問いかけを往復書簡の形でぶつけたものだ。
今ふり返ってみても、まさにぶつけたという表現がピッタシの感がする。そこには求めるものと応じるものとの全面一致の至福があった。よく真正面から受けとめてもらえたものだなあ、という感慨がどっとこみ上げてくる。

その頃(1975年の夏)現在宗教学者の島田裕巳さんは、大学四年生のゼミの潜り込み調査でコミューン(共同体)への関心から対象にヤマギシ会を選んだ。ところが一週間の特講で、本人の弁を借りれば回心してしまった。秋には関東の実顕地に参画してしまったのである。その彼も研鑽資料として当時熱心に読んだのが先の三部作だったと後で聞いた。
かくして1970年代は毎日が〝移動祝祭日〟のようにすぎていった。

そのことをもっとも象徴するのが会の機関紙に投稿した一文『ある愛の詩』(1977.1)だ。
何かやむにやまれぬ思いでヤマギシの村に住み始めてから今日までのじぶんをたどってみたものだ。書き終えて得も言われぬ解放感があった。しかし同時にいつまでこんなマイナーなことにかかずらっているのかと自己批判する自分もいた。
個と組織、自由のテーマが切実に迫ってくる前段階の日々でもあった。
関連記事
スポンサーサイト



PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する